望まれざる
日が傾きはじめている。夕暮れまで、どれだけの時間が残されているだろう。革袋のなかにはランプがあった。このままでは、森で夜をむかえることになる。あまり歓迎はできない。
いつしか気が急いていた。真眼を開いているかぎり、真力が光源となってくれる。でも、日中よりは確実に歩きづらくなる。
あれから——最初の転送と思われる真術から、いくつか同じものが発動していた。
立ち昇る白い光は、つねにちがう地点から空に放たれていく。どうやら、サガノトスへの入口は複数あるようだ。近い光にむかって行ってもいいけれど、森が動けば意味がない。そのうえ、下手をすれば真円の道も失ってしまう。そうなったら、もはや自力で森をぬけ出ることは不可能。それはふたりにとって最悪の事態を意味する。早くたどりつきたい気持ちをおさえ、ひたすら進んできた。
濃密になってきた緑の匂い。湿気を多くふくむ森の風のせいで息苦しい。ローグが歩きをゆるめてくれたが、それでも自分の息はあがりっぱなし。頭にどんよりと雲がかかっており、会話もとぎれがちになってきた。
「サキ、すこし休もう」
ローグの提案に対し、ゆるゆると首をふる。
「……さっきも休みました。まだ大丈夫です」
「無理をするな。後々にひびいてくる」
足場は、かなりわるい。森というより急峻な山のように思える。樹木は相変わらずうっそうとしている。しかし、どうも岩場に出たようだ。いま自分たちは、ところどころに洞がある、小高い崖の近くを歩いていた。
ローグの体力がうらやましい。自分は、あまり外に出ない性格も相まって、長時間歩くのになれていない。すでに、ふくらはぎのあたりは熱をもっていて、足の裏はかちかちに固まっている。それにひきかえ彼は、顔にうっすらと汗を浮かせているだけで、それらしい疲労の影すら見えない。
「あそこの洞窟で休もう。岩場に出てから木陰もすくない。日に当たりすぎれば熱で倒れる」
それでも首をふって抵抗する。顔をしかめつつ見つめてくる相手に、いやだと切に訴える。
浮いてきた汗をふくみ、背中に服が張りついていた。不快だけれど、いまはどうしようもない。森がざわざわと体をゆすり、強く風が巻きおこる。汗を冷やしてすぎていく風。背を冷たい手がなでたようで、悪寒が走った。……遠くで耳鳴りがしている。
思わず背後をふり返る。なにもいない。いない、はずなのに——。
「サキ……?」
ローグの心配そうな声が聞こえる。しかし返事ができない。うしろから。いや、どこからかだれかに見られている。
ありえない。でも、足がふるえる。耳鳴りがどんどん近づいてきていた。
「どうし——」
「く、る……」
全景にあわただしく視線を飛ばす。途中、瞠目した彼が目に入った。それすら無視して、神経をとがらせていく。
見られている。ちがう、探されている。
自分の異常なおびえに予感を覚えたのか、ローグが機敏に動いた。右腕が強い力でつかまれ、身体ごと彼のほうへ引き寄せられる。はらいのけようとした腕が、いともあっさりと、おさえこまれた。音を立てぬように、どこかへと向かうローグ。
耳鳴りが高くなってきた。
近くにあった洞窟に誘導されてすぐ、もっと奥に入れと手でうながされた。ふるえに追われながら奥へむかう。
洞窟のなかには、大きな岩が侵入をこばむように転がっていた。懸命に奥へもぐりこみ、もっとも大きいと思える岩のうしろに、身を隠した。
彼は洞窟の壁のほうに自分を押してから、同じ岩の陰に身をおいた。ふたり並んで、静かに座りこむ。
耳が痛い。肩がふれたとき、身体のふるえを感じとったのか、ローグがちらとこちらの顔を見て、そっと手をにぎってきた。冷たい指先を、骨ばった手があたためるようにつつむ。
「俺がいいと言うまで動くな。……真眼は閉じておけ」
静かに言われて、うなずこうとした。しかし首に力が入りすぎて、どうにもうまく動けない。そんな自分の返事を待たずに、彼も動かなくなった。
洞窟の入口から風の音が流れてきた。真眼を閉じたため、となりにいるローグの気配が、森に埋もれ消えてしまったよう思えた。確かめたくて手に力を入れると、こたえる動きがあった。
きつく目を閉じれば、岩肌の苔の匂いがしみた。しばらくして、入口のほうからじゃり、じゃり……という音が聞こえてくる。岩場の砂利をふみしめる音——。
遠くなったり近くなったりをくり返しながら、足音が距離を縮めてきた。獣……ではない。人だ。
耳鳴りは、笛のように高く鳴いている。恐怖の最中にあっても取り乱さずに済んでいるのは、となりにたしかな存在があるから。そしてなにより、心で確信が生まれたからだ。
(あれじゃ、ない)
悪夢のつづきではない。なにかよくないものではあるが……あれが追いかけてきたわけではない。根拠はなくとも、大丈夫だと信じられた。
足音が洞窟の近くで止まり、ふたり同時に息をつめる。洞窟の外で気配がする。転がっている岩に、やわく白い光が映りこんだ。
真導士だ。
いまは真眼を閉じている。そのため、開いているときほどの明確な光は見えなかった。だがしかし、日の光にしては白く、冴えた光が、きらきらと壁のうえで踊っていた。
光が踊っている間は、ふたりとも微動だにしなかった。一瞬、正師たちだろうかとも思ったけれど、すぐさまその考えを否定した。
真導士が、たがいの気配に敏いとは、こういうことなのだろう。冴えた光から、まざまざと悪意が感じられた。
幾度か真術の気配がして、すこしずつ足音が遠ざかっていく。砂利をふみしめる音が、すっかり聞こえなくなるまで、息をひそめてじっと待つ。
「……行ったな」
彼は外をうかがいながら、言葉を落とした。危機が去ったためなのか、気がつけば耳鳴りも消えていた。
「人ですよね」
「真導士だろう。ずいぶん胸が悪くなるような気配だった……。よく気がついたな」
「……見られている気がして」
探るように、見逃さないように森を這ってきた視線。思い出すだけで怖気が走る。
「外に出てみよう。まだ真眼は開くなよ」
「はい」
音を立てず、洞窟の入口へむかう。外に出て、世界のまぶしさに目を細めた。岩場には、突然の来訪者の痕跡はどこにもなく、ごつごつとした岩肌が、さきほどと変わらずに広がっていた。
あの真導士は、ここでなにをしていたのだろうか。
「真眼、開いても大丈夫そうだな」
「ええ」
ふたり同時に真眼を開いて、息を飲んだ。
「真円が……消えている」
追ってきた唯一の道標が、視界のすべてから消し去られていた。