蠢く森
「あの、ローグレストさん……」
呼びかけると、ローグでいいと返される。ついでローグさんと呼べば、すこし変な顔をされた。
「なんだ」
返事があったので、これでいいらしい。
「ごめんなさい」
右手にパンを、左手に水の瓶をもった彼に凝視される。
「ご迷惑かけてしまって……」
「迷惑?」
食事というには質素であるが、森の一角に座りこみ、ふたりでパンを食べている。いろいろ大変なことがありすぎて、空腹であると認識できずにいた。だが、おいしそうに食べる彼につられたのか、めずらしく自分の食も進んでいた。パンに練りこまれている胡桃の匂いが、たまらなく香ばしい。
食欲が満たされると冷静な判断もできるようになり。錯乱して暴れたことと、手当てまでさせてしまったことが重く胸にのしかかってきた。
「……怪我を」
「人が倒れていたら手当てぐらいはする。迷惑と思っていない」
彼はあっさりと答えた。
つと、 "ひかえの間" で寝入っていたことを思い出す。あのときの想像は正しかった。かなり豪胆な人なのだろう。
「ほかの奴らは?」
聞かれて、なんのことだろうと考えこんでしまった。
「いっしょにいただろう。森の入口でつどっていた連中だ」
ついさっきの話なのに、かなり昔のように思えるあのできごと。
そうか。彼は先に森へと入った。だから、そのあとを知らないのか。
せつなくてなさけない顛末を、彼にどう伝えるべきだろう。納得してもらえるような答えを探せず。ぐるぐると頭のなかで迷走したあげく、うつむいた。取りつくろった答えを言うのも憚られる。自分には、上手い嘘をつく才もない。
ならばいっそ正直でいよう。まっすぐな目をした彼をごまかすなどできない。
「いっしょに行くのを断られてしまって……」
「断られた? ……まさかひとりで来たのか」
こくりとうなずく。
「女ひとりで森に入らせるとは」
「あの……わたしはだれよりも真力が低いらしいのです。真導士になれたのがおかしいくらいで。だから……」
当然だと思った。
最初は、やはりひどく悲しい気持ちになった。けれどもここは "迷いの森" 。真導士の里へむかうための、危険極まりない真力あふれる森。自分の身をおそった、尋常でないできごとを思えば、正しい選択だと納得できた。足をひっぱる者がいれば、集団全体を危険にさらす。身の毛もよだつような恐怖を知った以上、どうしてもうらむことができなかった。
「それがどうした」
毅然とした声が、真正面からやってきた。
「真力が低かろうが、女をひとりで森に入らせる理由にはならない。どうせまだ真術のひとつも使えないんだ。おたがい似たようなものだろう」
似たようなもの。
はたしてそうだろうか。自分はだれかの役に立てそうにない。それこそ足をひっぱるような想像しかできなかった。事実。もうすでに、彼の足を止めてしまっている。
「まあ、ちょうどよかったかもな」
ローグが言った「ちょうどいい」の意味がわからず、首をかしげる。
「俺もひとりだ。いっしょに行くだろう?」
おどろきのあまり、絶句してしまった。予想外の誘いにあわて、おおいに困惑する。
「でも、ひとりで行くって……」
彼はすこし考えてから、なにを言いたいのか思い当たったらしい。
「めんどうだったから、断った」
めんどう?
口には出さず、目で問いかける。
「初めて顔を合わせた同士が、十人も二十人も集まって事にあたれば、仲たがいがおこって当然。流されやすい奴も多そうだったし。女ひとりを置いていく連中だったんだろう? 断ってよかったというものだな。……それに人数を集めて連れ立ったとしても、どうせ森のなかではぐれるはめになる」
「……はぐれるはめ、ですか?」
ローグはこちらをじっと見たあと、周りの樹木に視線を送り、声をひそめて言った。
「気づいているか、この森……」
——動いている、と。
「最初からおかしいとは思っていたんだが、どうもそのようだ」
にわかには信じがたい。でも、彼が嘘をついているようにも思えない。
「樹木に印をつけて歩いていた。入ってからずっとだ」
最初の岐路で、彼もなやんだという。
しかたなく適当に道を選んで進むことにし、間違っていたら戻れるようにと印をつけた。ほかの岐路があるわけでもなく。行き止まりにあたることもなく。ずっとまっすぐに歩いていたそうだ。
「奥にしか進んでいないはずだ。それなのに、途中で印のついた樹木を見つけた。ただの印なら、ほかにつけた奴がいてもおかしくない。でも、間違えないよう複雑な形にしたから、俺の印でしかありえない」
ぞっとした。
あのとき聞こえてきた、大勢の悲鳴。
自分を取り戻してみれば、あれは森のなかからしか聞こえてこないのだと、簡単にわかることだった。隠れる場所を探すあまり、まんまと危険なほうへと足をふみ出した。……そして突然の地割れ。
真力を帯びた森は、人々を飲みこみながら蠢いている。
「怖いか」
黒い瞳が自分を見ている。なんど見ても吸いこまれそうだと思う。
「……はい」
人に弱音を吐くのはなれない。正直でいようと決めたのに、心のまま言葉にするのはこんなにも難しい。
「大丈夫だ、ふたりならどうにかなる」
「……わたし、足手まといになると思います」
「森を出てから決めてもいいだろう。意外とせっかちだな」
くすりと笑った。この人は、本当に心が強い人だ。もしかして真力は、強い気持ちを持つ人に、よりたくさんあたえられるのではないだろうか。そう考えれば、彼の真力と自分の真力のちがいを、上手く説明できるように思う。
「さて……そろそろ足の具合を見てみよう。治っていたら出発だ」
はい、と返事をする。
返事をする相手がいる。その現実が、なにより心強かった。