鼓動
自分の正気を確かめた男——ローグレストは、上着にはりついた土と木端を、手早くはらってくれた。
泣きやまなければ。
平静を取り戻すべく、目をごしごしとこする。涙を流したのは久しぶりだった。幼い子供に戻ったようで、なんだか気恥かしい。
ふと、ローグレストが笑った気配がした。
不思議に思って顔をあげる。途端、すこしだけ目元をなごませた彼と、まともに出会う。
とくりとひとつ、胸が脈をうった。
「サキ」
低い声。自分の名前なのに、ちがうだれかを呼んでいるように聞こえる。
「立てるか?」
はい、と応じて立ちあがろうとした。しかし、右足に力をこめたときに激痛が走った。痛みにたえかね、立ちあがりかけた形のままよろめいて、ローグレストの体に着地してしまった。
自らだきつきにいった格好となってしまい、あわてて離れようとしてみたけれど、足の痛みで上手くいかない。こめかみをいやな汗が流れていく。動くこともできず、痛みが去るのをこらえて待つ。
ローグレストは、右足に異常が出たと気づいたらしい。辺りに目をやり、なにかを見つけて自分に視線を戻す。なんだろうと思っていると、突然身をかがめ、有無をいわさず横抱きにしてきた。
か細い悲鳴が、口からこぼれる。こちらの動揺を気にもかけず、彼はすたすたと一直線に歩いていく。しばらく歩いてから、無造作に転がっていた平べったい岩に、ゆっくりと自分をおろした。
ローグレストの腕が離れても、鼓動が早鐘のように乱れうっていった。怪我をしているとはいえ、男の人と密着するとは……。
(ああ、なんてはしたない)
岩のうえに、人形よろしく鎮座させらせた自分。だが、試練はまだ終わっていなかった。
彼は靴に手をかけたのだ。より正確にいえば、彼は長靴をくくっている革紐に手をかけたのである。今度の動揺は、さきほどの比ではなかった。素足は、うしろ髪と同じくらい破廉恥な部位である。見ず知らずの相手に素足を見せたことは、過去一度もない。
「ま、待ってください!」
自分でもおどろくくらいの声が出た。声に呼ばれた黒の瞳が、ひたと見すえてくる。その力強い視線に、きゅうと胸がつまった。
「具合を見るだけだ、無礼なまねはしない」
言うだけ言って、さっさと革紐を解いていく。解き終わると、今度は靴を脱がされる。革靴の下に足布をはいてはいたが、こちらも問答無用で取られてしまった。足を森のぬるい風がなでていく。さらされた肌は、いっそ病的といえるほど白く透けている。
素足に手がふれた。肩が跳ねたのは気づいていただろうに、彼は無言のまま両手で足を包みこむ。首も、頬も、耳も、どうしようもないくらいに熱かった。
浅く焼けた手の色は、青白い肌のうえで健康的に映えていた。彼が、右足に集中していることだけが救いだった。自分の顔は、湯気が出そうなくらいの熱を帯びている。
ローグレストは足首の腫れを見て、用心しながらそっと曲げた。
「あっ……!」
また、激痛が走った。
「やはり、ひねったみたいだな。手当をしようか」
ひざの泥をはらって立ちあがり、どこかへと歩いていく。その背中をあわてて呼び止める。
「あの、大丈夫です。自分でやりますから」
これは嘘だった。
手当てをしようにも、なにも持っていない。嘘をついてでも大丈夫といわなければ、きっと時間を使わせてしまう。彼の足手まといになってしまう。それが、どうしてもいやだった。
ローグレストが、こちらをふり返る。
「動けないだろう」
黒い瞳が、浅はかな嘘を見すえながら問う。悶々としている自分に、おとなしくしていろとだけ言いおいて、もといた場所へと戻っていった。
岩のうえでしばらく呆然としていると、彼は革袋をふたつかかえてやってきた。すっかり忘れていたが、ひとつはおそらく自分が持ってきたものだ。目の前に腰をおろし、革袋の中身を改めはじめる。袋のなかには、思いのほかいろいろと入っていたようだ。
ナイフと厚手の布、瓶に入った水に紙袋。紙袋からはパンが四つ。さらには包帯と、そして——白い光を帯びたふたつの水晶。
「……これ」
なにに使うのだろうか。水晶は、手のひらに乗ってしまうくらいの大きさで、明らかに真力を帯びていた。
「輝尚石を知らないのか」
キショウセキ。またまた聞きなれない言葉だ。
「はじめて……見ました」
「行商人が売り歩きに来るだろう」
「わたしの村、すごく小さくて……大きな町も近くにないので」
行商人など見かけたこともないと、すなおに告白した。そうしたら「遠くからきたんだな」と妙に感心されてしまった。そして彼は、地面に並べていた輝尚石のひとつを手にする。
「見ていろ」
なにが起こるのだろうか。
痛みも、羞恥も忘れてローグレストの動きに集中する。彼は、なれた手つきで輝尚石に包帯を巻きつけていった。ぐるぐると巻いたそれを、今度は腫れた右足に巻きつけていく。しっかりと固定をして、ゆすっても落ちないことを確認したあと。ゆっくりと三回、指先で輝尚石をたたく。
思わず光景に見入った。うっすらと光を帯びているだけだった輝尚石が、輝きはじめたのだ。
開眼をしたからだろう——強い真力を感じる。いままさに真術が使われていると感じられる。水晶は、うるむように輪郭をゆらしていた。ゆれる輪郭の外側に、小さな真円がはっきりと見えている。
「ひねったくらいなら、すぐに治る」
包帯を革袋にしまいながら、彼が言う。
「休むついでに、腹ごしらえをしてしまおうか」