はじまりの朝
樹木の合間から見えていた蒼天は、残酷なほど紅く染めかえられていた。
いまは、ただ独り立ちつくしている。
頼れる者はなく、その身を守るすべもない
遠くにある紅の合間に、闇色の大きな影がゆらりと動いている。
耳が痛い。
悲鳴のような耳鳴りがひびき、頭をしめあげていく。
紅い空は見ているだけで悲しい気持ちになるのに、どうしても目が離せない。
逃げなくては
どこまでも走って
隠れて
決して見つかってはいけない
見つかったらきっと、きっと——
「サキ」と呼ばれた気がした。
闇のなかで、ゆっくりと目をまばたく。
自分が目を覚ましていると気づくのに、すこし時間がかかった。
寝床のはしまで転がり、左の壁にむかって、まるで寄りそうような体勢になっていた。丸く縮こまっていた身体を伸ばし、ゆっくりと寝床の中央まで移動する。
あおむけになり、しみだらけの木目の天井を見あげた。ランプはつけたまま寝ていたので、室内は明るい。窓かけのすきまから見えている空は、まだ暗い。
夜は明けていないようだ。
いつもの夢。
なんど見たかはもう忘れてしまったけれど、起きてしまえばいつものことだと思える、なじみぶかい悪夢。
目的地に到着したという安堵からか、宿についてすぐ眠気におそわれ、昨夜は早めに休んだのだ。しかし、どうやら眠りはあさかったらしい。
夜着が寝汗で冷えている。少々不快ではある。
それでも眠らなければ。今日だけは、無理にでも出席する必要があった。
本当なら、人が多くてにぎやかなこの都には、あまりいたくはない。これが国家の行事でなければ、村から出ようともしなかった。
気持ちのしずみを、寝返りでごまかす。
とにかく寝てしまおう。儀式に出席して用をすませ、できるだけ早くこの都から出ていこう。どうしたって、もう村には帰れない。
この都の近くには、静かないい町がいくつかあると聞いた。女の足だ。そう遠くまではいけない。でも、隣町くらいなら歩いていけるはずだ。町の様子がよさそうだったら、そこで職を探してみようか。
不安だらけではある。でも、どうにか落ちつく場所を見つけないと……。
胸に手をおいた。眠る姿勢をととのえる。あの夢を見たあとは、ここに隙間があるように思えてしかたない。
ふたたび眠りについたのは、窓かけにうっすらと朝日の姿がうつりはじめたころだった。
自分が知るかぎり、この大地には四つの大国がある。
そのうちのひとつ。ドルトラント王国にある聖都ダールについたのは、昨日の夕暮れ。この国には、商人たちが荷と一緒に人を運ぶ "乗り合い" の馬車が走っている。
庶民が利用できる移動手段としては、もっとも安価な足だ。村から半月ほどかけて馬車を乗りつぎ、ようやく都にたどりついた。片田舎から出てきた自分にとって、都はおどろくほどさわがしい。だれも彼もがせわしなく動いていて、どうにも落ちつかない場所だ。
開けた窓からおもての景色をながめ、人の多さに辟易しながらも、出かける支度をはじめる。
昨日までは旅路の途中だった。左側を前にし、男のように巻いていた薄緑の上着を、もとどおり逆側に巻きなおす。聖都には守護をになう兵士がいて、つねに見回りをしている。だから女らしい恰好をしても大丈夫なのだと、宿のおかみがいっていた。
そうはいっても、今日は歩くことが多いだろう。厚手の足布をはき、旅路でくたびれた革の長靴のなかにズボンのすそを押しこみ、革ひもでくくる。
これが一番歩きやすいと、馬車で同乗した旅人が教えてくれたのだ。
おつぎは髪だ。くしをとおして、中央でわけてから三つ編みをふたつ作る。
この国の女は、総じて髪が長い。
長い髪をちゃんと手入れすることが、いい女のたしなみとされている。
もちろん自分の薄い色をした金の髪も、腰にかかるほど長く伸ばしていた。それを、毎日毎日ぎゅっと三つ編みにしたうえで、きっちり頭上でまとめ。ずれないよう黒の帽子で隠している。
今日はとくに慎重に髪をととのえる。これから大勢の人が集まる場所へいく。万が一でも帽子がとれ、うしろ髪を見られてはいけないと、いつもよりも帽子を深めにかぶる。
うしろ髪は、家族か恋人にしか見せてはいけないものだ。衆目にさらすような、はしたないまねはできない。髪でおしゃれができるのは前髪と、耳を隠すためにだしている左右ひとふさずつの添え髪だけ。
とはいえ貧しい村で育った自分は、おしゃれ自体になれていない。
唯一もっている装飾品は翠色の髪留め。それで前髪を左のほうへ流してかざる。
鏡のなかにいる自分は、すこし顔色がわるい。
やはり夜中に目を覚ましたのがまずかったのか、肌に血色がない。覇気のなさをあらわしたような琥珀の瞳。その周囲に赤みがさしている。
ふうと息をついてから、頬に手をそえた。
儀式が終わったら、すぐ宿までもどってこよう。今日、すっかり休んでしまえば疲れがとれる。きっと、明日には出発できるはずだ。
窓を閉め、戸締まりをしてから部屋を出る。
宿の受付には、昨日と同じように人懐こい顔のおかみが座っていた。おかみはあいさつのついでに、儀式がおこなわれる神殿までは地図がいらないと教えてくれた。同じ年ごろの男女が、ひとつの流れにそって歩いているから、外に出ればすぐにわかるという。
礼をつたえ、よどんだ気持ちをかかえながら宿をたつ。
しずみきった気持ちとは裏腹に、空は雲ひとつない晴天だ。せめておだやかな一日であってほしいと願い、神殿にむかって歩き出す。
この日が。
この朝が、すべてのはじまりだったと気づくのは、しばらくあとの話。
