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灰色の雨

作者: 黒部伊織

 ひどく激しい雨が降っている。

 僕はビルの軒先で雨宿りをしながら人間を待っている。

 間断なく降っている雨の音は滝や川のように絶え間なくざあざあといっている。

 視界がぼやけるほどの雨だが、街の中心街にも関わらず通りに人は疎らなので待ち人を見逃してしまう心配はそれほどしなくてもいいかもしれない。

 足早に過ぎ行く人々をじっと見ても、この雨なら周囲を気にする者はいないので怪しまれる心配もない。僕の待っている人間は僕のことを待ってはいない。そもそも、僕が来ないことを祈っているかもしれない。

 ざざあっとひときわ雨が強くなる。

 灰色の雨だ。灰色なのは雨雲に覆われた灰色の空と太陽の光が遮られて薄暗くなったせいだけじゃない。このコンクリートに覆われた味気ない街が余計に雨を灰色にしている。

 けれども、同時に灰色の雨はこの街の輪郭をぼやけさせて、僕が雨雲の中にいるのではないかと錯覚させる。

 灰色、灰色。そしてところどころ趣味の悪い刺激的な赤や黄色が混じる。それは何かの看板なのだろう。

 最初は控えめだった看板だけだったのかもしれないが、誰かが人目を引くような色を使う。そうすれば他の人間も負けじと刺激的な色を使う。

 おおよそ街の控えめな灰色とは対照的なくどい色がぽつりぽつりと浮かんで見える。雨はそれらの伝えるべき文言をぼやけさせてその目立つ色だけを浮き立たせてみせる。

 広告の内容ではなく、その色だけが見える。ぼやけた世界の中でメッセージは意味を失い、色だけが鮮明になっている。

 ざああっと飛沫を上げながら自動車が目の前を通り過ぎていく。今日は車も数が少ない。誰も彼もこんな天気の日に好んで外出しようとは思わないだろう。

 僕のような人間か、それとも僕の待ち人のような何か隠れ蓑を欲しがる人間か。

 今日、僕がこの雨の日を選んだのはそんな理由からだった。ターゲットの足取りはこの街にいるという以外に分からなかったが、何となく今日、街の中心であるここらへんに来るだろうという気がした。

 それは直感というものなのかもしれないが、僕はあまり直感を信じないようにしていた。

 そうするように僕に教えたのは師匠に当たる人だった。

 曰く、人間の直感とは天の恵みのように突然降ってくるものではなく、人間の積み重ねた記憶や経験・思考回路が、自覚できる論理的・物語的な繋がりを超えて結論の部分だけを吐き出したものに過ぎない、ということだった。

 僕たちは直感というものを何か特別なもののように扱ってしまいがちになるけれど、そんなに信じていいものじゃないと師匠は言っていた。

 戦場みたいな厳しい環境で直感を頼りに生き残る、なんて話はよくあるけれど、死んだ人間の方も直感を頼りにしているかもしれないのだ。

 それは確認しようがないので、まさに死人に口なしというやつである。

 確かに戦場ではいちいち時間をかけて判断する暇がないことが多いから、人間は直感に頼りがちになる。

 それは仕方のない事なのだ。だけれども行き会ったりばったりに何も考えずに直感に従っているだけではそのうち死体になってしまうかもしれない。

 僕の師匠が言いたかったのは直感に頼るだけじゃなくてそれを意識的にコントロールしたり、修正と改善を加えろということらしかった。

 僕は初めてその話を聞いたときは感心したけれど、要は日々の修練や自分の行動を意識的に分析するという、よくありがちなトレーニングをしろということだと気がついた。

 結局のところ人間のできることは驚くほど単純な積み重ねだ。けれどそれを意識下に置くというのは意外に難しい、と気がつくのにはちょっと時間がかかったのだった。

 ふと気がつくと雨脚がさっきより弱くなっている気がした。雨の音が遠くなっているように感じる。

 街もさっきよりは輪郭を取り戻している。

 雨の次第に弱くなっていく様子は分かり難いのだけれど、こうして気がつくと確かに弱くなっている事が分かる。

 妙な認識のズレだなと思う。

 さっきから考え事はしていたけれど、ほとんど目を離さず、耳を塞がずに観察していたはずなのにどこで雨が弱くなっていったのか分からない。

 そう考えているうちに再びざあざあと雨が強くなった。今度はその瞬間をはっきりと見つけた。

 街は再び輪郭を失う。さっきよりもずっと歪んでいる。

 周囲には人も車もいなくなり、まるで動くものがない不思議な灰色の空間が出来る。

 時折信号やどこかの電灯の類が点滅するけれど、それだって場所を移動するわけじゃない。

 灰色の動かない街。

 僕はそこで正面の道路から大きな買い物袋を抱えて傘をさした背の高いひょろりとした黒っぽい服のとこが歩いているのを認識した。

 どうやら向かいの店で買い物を済ませて出てきたところらしい。

 男は横断歩道を渡って僕の前を足早に通り過ぎていく。僕は男の顔をよく確かめる。

 どうやら僕が待っていた人間で間違いないらしい。

「あの」

 後ろから声をかける。

 しかし、男は聞こえないのか振り向かず、歩いて行ってしまう。

「あの!」

 小走りで男に追いついて袖を引っ張る。

「ハンカチ!落としましたよ」

 男は今度は振り返った。中年を過ぎたであろうやつれて浅黒い顔には不安が浮かんでいた。

「これ、あなたのですか?」

 僕はなるべく屈託のない笑顔を試みてハンカチを差し出す。もっとも、僕は表情を作るのが苦手だから多分相手の目にはどう映ったのか分からない。

 だが、僕の目に映った男は僕がターゲットとして見せられた画像の中の男と寸分違わず一致していた。

「い、いや」

 男は一言だけ否定の言葉を口にした。当然の反応だ。男はハンカチなど落としていない。差し出したのは僕が元から持っていたハンカチだ。

「ハラルドさん、ですよね?」

 僕は彼の名前を口にする。男は目には不安ではなく確かな恐怖が浮かんだ。男は僕を最も会いたくなかった種類の人間の一人だということを理解したらしい。

 僕はじっと彼の目を見る。男は蛇に魅入られた蛙のように視線をずらそうとしない。質問の返事としては十分過ぎる。

 僕は懐から銃を取り出す。何らかの抵抗が試みられる前に胸を素早く、しかしよく狙って撃つ。

 一発、二発、三発。

 男は多分逃げようとしたのだと思う。僕から顔を逸らそうとしたが、撃たれて体に力が入らなくなったらしくアスファルトの上に倒れた。

 男の手から傘が転がり落ちる。続いて抱えていた買い物袋もずり落ちていろいろな生活雑貨がこぼれて辺りに散らばっていく。

 缶詰やレトルト食品が大半のようだった。なるべく外に出ないようにして暮らすつもりだったのだろう。

 僕は男の行くはずだった方へと歩いて行く。なるべく周囲に気を払いながら、しかしきょろきょろとしている様子を見せないように目だけを動かして、遅くもなく早くもなく歩いて行く。

 あの男はすぐに片付けられるだろうか。あまりに殺人に慣れ過ぎたこの街では、こんな雨の日なので暫くあのままかもしれない。

 僕はざあざあと降りしきる雨の中で今日の仕事について考えながら歩いた。

 持っていた折り畳み傘を広げては見たものの、慰め程度しか雨を防いでくれない。地面に打ち付けられたり傘の端からの漏れたりする雨のせいでほとんどびしょ濡れに近い状態だ。

 今日の出来事を思い出す。灰色の雨。ずっと待っていたこと。男。確認。撃ち殺す手順。逃げる手筈。

 それを2,3度繰り返した。

 僕はふと雨脚が弱まっているのに気がついた。灰色の街の輪郭がくっきりと見え始めて、陽の光も強くなっている。

 その時、僕の思考が明瞭に一つの回答を導き出した。

 もっと早く気がつくべきだった、と。

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