脱・中二病
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世の中には嫌いなものがいくらでもある。蚊の音、緊張する空気、キンチョールの匂い……。しかし、私がこの世で最も嫌悪しているのは「中二病」という言葉、そしてその裏にある「冷笑する文化」である。
「中二病」そのものではない。それを安易なレッテルとして使い、粗削りな若者の純粋な主張を封殺しようとする、この国の卑劣な空気感そのものを、私は心の底から軽蔑する。
目次
天才と中二病の境界線は「結果」だけ
「恥」という名の自己検閲が、才能を摘み取る
冷笑は、議論から逃げた者の「卑怯な逃げ道」
私たちは、もっと主張していい
天才と中二病の境界線は「結果」だけ
バンクシーも、前澤友作氏も、元をたどれば「中二病」的な感性と情熱の持ち主だ。しかし、彼らを冷笑する者はいない。
なぜか。結果を出して社会に認知されれば彼らは「天才」と呼ばれ、途上であれば「中二病」と嘲笑されるからだ。
つまり、「中二病」とは本人の本質的な性質ではなく、周囲の身勝手な多数決によるレッテル貼りに過ぎない。 成功するかどうかという結果論で、他者の志をジャッジする。こんな不毛なことはない。
「恥」という名の自己検閲が、才能を摘み取る
この言葉の何が最も罪深いか。それは、若者が「力強く思い切った主張」をすることへの恐怖を植え付けることだ。
「経済の本を少し読んだだけで、日本のシステムに疑問を語ることは恥ずかしい」
「哲学のパラドクスを語るのはカッコ悪い」
そんなふうに自分を押し殺した結果、その道の学問人になる芽や、起業家になる可能性が摘み取られていく。
ライト兄弟もエジソンも、最初は周囲から「中二病」と笑われるような荒唐無稽な夢を語り、恥をかきながら成長してきたはずだ。彼らにとって、他者の冷笑は成長を阻害するノイズでしかなかった。間違った主張を指摘されることは成長を生むが、冷笑は何も生まない。 「どうせ何をやっても無駄」という風潮が、日本の活力を根こそぎ奪っている。
冷笑は、議論から逃げた者の「卑怯な逃げ道」
「中二病」という言葉の厄介な点は、建設的な議論に一切発展しないことだ。 本来であれば、間違った意見や甘い主張に対しては、「それはここが論理的におかしい」と批判をすべきである。しかし、冷笑は違う。
「うわ、中二病っぽいw」「かっけーw」
たったこれだけで、論理を組み立てる手間を省き、優越感に浸り、あたかも相手を論破したかのような気分になれる。冷笑は、反論よりも圧倒的に安全で、卑怯な行為だ。 問題点の指摘にすら至らないこの悪習は、議論を放棄しているという意味で、単なる批判よりもはるかにタチが悪い。
私たちは、もっと主張していい
私は断言する。「中二病」と冷笑する文化は、百害あって一利なしの悪習である。
この国で最も恥ずべきは、誰かの挑戦を冷笑のネタにして消費することだ。
もしあなたが今、何かを語りたいのに「恥ずかしい」というブレーキを感じているなら、そのブレーキこそが日本の未来を曇らせている元凶だと知ってほしい。
間違っていてもいい。荒削りでもいい。 「中二病」などというレッテルを恐れる必要はない。嘲笑する側よりも、恥をかきながら自分の考えを形にする側の方が、圧倒的に人間として尊い。
今こそ、この「冷笑の空気」を突き破って、自分の中にある言葉を外に出すべきだ。
私は、「中二病」と笑われることを恐れて黙るより、
笑われてもなお語る側でありたい。この文章は実行結果である。




