第3章:見逃した少年
東京湾岸エリア、通称「第9廃棄区」。
かつては五輪施設やタワーマンションが立ち並んでいたこの場所は、今や旧型AIロボットの墓場であり、社会から弾き出された貧困層の吹き溜まりと化していた。
海人のブーツが、泥と錆びた基盤が混じり合った地面を踏みしめる。
ここでは空気が違う。腐敗した有機物と、焼けたシリコンの臭いが鼻腔にねっとりと張り付く。
「……執行官だ」
「目を合わせるな」
路上のドラム缶で火を焚いているホームレスたちが、海人の姿を見るや否や、ゴキブリのように散っていく。彼らにとって、海人の黒いコートは死神の鎌そのものだ。
海人は無表情のまま、端末のマップを確認する。この地区での窃盗被害が多発している。本来なら警察の仕事だが、彼らは汚れる仕事を嫌い、執行官に丸投げするようになっていた。
その時、錆びたシャッターの陰から、小柄な影が飛び出してきた。
続いて、自動販売機型の無人コンビニからけたたましい警報音が鳴り響く。
「待て!」
海人は反射的に走り出した。
影は速い。瓦礫の山を猿のような身軽さで飛び越えていく。だが、海人の身体能力はそれを上回る。路地裏を二つ曲がり、袋小路に追い詰めた瞬間、海人は相手の背後からタックルを決めた。
「放せ! 放せよクソッ!」
泥水の中に組み伏せられたのは、まだ少年だった。十代後半。痩せっぽちで、頬がこけている。泥だらけの手には、真空パックされた合成パンと、レトルトのスープが握りしめられていた。
「窃盗現行犯だ。抵抗すれば、公務執行妨害及び反逆罪とみなす」
海人は少年の腕を捻り上げ、腰のホルスターからM&P9を抜いた。
銃口を少年の後頭部に押し当てる。ひんやりとした金属の感触に、少年がビクリと震えた。
執行権限発動要件、充足。
海人の脳内で、冷酷な計算式が成立する。この少年をここで射殺しても、誰にも咎められない。治安維持のための「清掃活動」として処理されるだけだ。
引き金に指をかける。あとは数ミリ、力を込めるだけ。
「……妹が」
少年の掠れた声が聞こえた。
「妹が、腹減らしてんだよ……! 三日も何も食ってねえんだ!」
海人の指が止まった。
少年が顔を歪め、涙と鼻水を垂れ流しながら訴えかけてくる。
「俺はどうなってもいい! でも、このパンだけは……頼むよ、これだけは妹に届けてやってくれよ!」
その必死な瞳。
海人の脳裏に、かつての自分の姿が重なった。
職を失い、母の薬代のために頭を下げ続けた日々。内職で荒れた紗季の手。
もし自分が執行官に選ばれていなければ、自分もまた、この少年と同じように泥水をすすり、何かを盗んででも家族を生かそうとしただろうか。
――こいつは、俺だ。
海人の心臓がドクリと脈打つ。
殺せるか? たかがパン二つを盗んだだけの、家族想いの子供を?
「……名前は」
「……え?」
「名前を聞いている」
海人は銃口を下ろし、少年の腕を解放した。
「……リク。リクっていうんだ」
リクは信じられないものを見る目で海人を見上げていた。
海人はジャケットの内ポケットから、携帯食料のエネルギーバーを二本取り出し、リクに放ってやった。さらに、盗んだパンを指さす。
「行け」
「え……?」
「気が変わらないうちに失せろ。二度と俺の前に現れるな」
海人は背を向けた。背後で息を呑む気配がする。
これは職務放棄だ。重大な規律違反だ。だが、不思議と後悔はなかった。むしろ、胸の奥にあった重苦しい鉛が、少しだけ軽くなったような気がした。
人を殺すだけが正義じゃない。生かすこともまた、執行官の力なのだと。
「……ありがとう」
背後から、震える声が聞こえた。
振り返ると、リクは泥だらけの顔を拭い、真っ直ぐに海人を見ていた。
「俺……あんたみたいな強い人に、なりたい」
その瞳には、先ほどの恐怖ではなく、憧れに近い光が宿っていた。
海人は何も答えず、ただ小さく頷いて歩き出した。
帰り道、海人は自分の掌を見つめた。
今日は血に濡れていない。
指先から伝わる微かな温もり。それは、奪わなかった命の重みだった。
自分はまだ、獣ではない。まだ人間の心を持っていられる。
曇り空の隙間から射す薄日が、少しだけ暖かく感じられた。
(第3章 完)




