第2章:正義の執行
そのアラート音は、耳ではなく骨に直接響くような不快な周波数だった。
支給されたばかりの専用端末が赤く明滅し、『強制介入要請』の文字を吐き出している。
場所は旧渋谷区、スクランブル交差点跡地。
海人はパトカーの後部座席で、震える指を抑え込むように特殊警棒のグリップを握りしめた。
現場は地獄の釜の蓋が開いたような有様だった。
規制線の向こう側で、獣のような咆哮と、悲鳴が入り乱れている。
「どいてくれ! 執行官のお通りだ!」
警官が怒鳴り、野次馬を強引に押しのける。その先にいたのは、人間と呼ぶにはあまりに損壊した精神の持ち主だった。
三十代半ばの男。最新の合成麻薬『レッド・スパイダー』の中毒者だ。眼球は限界まで充血し、口からは白い泡を吹き、片手に大型のサバイバルナイフ、もう片方の手には血まみれの女性の髪の毛が握られていた。
足元には既に二人、肉塊と化した警官が転がっている。
「う、あ……あああッ!」
男がナイフを振り回すたびに、包囲した警官隊が情けなく後ずさる。発砲許可が下りないのだ。流れ弾のリスク、人権団体への配慮、上層部の責任回避。それらが何重もの鎖となって、現場の手足を縛っている。
海人は規制線を潜り抜け、男の前に立った。
アスファルトが焼ける匂いに混じって、濃厚な鉄錆の臭気――血の匂いが鼻腔を刺す。
「対象確認。執行官コード013、天城海人。これより治安維持法に基づき執行する」
海人の声は、自分でも驚くほど冷徹だった。だが、心臓は早鐘を打ち、胃の腑がせり上がるような緊張感に支配されている。
男が海人を認識した。濁った瞳が焦点を結ぶ。
「ギィ、あぁぁアッ!」
言葉にならない叫びと共に、男が突進してきた。人間離れした速度。だが、剣道の達人である海人の動体視力にとって、薬物でリミッターの外れただけの暴力は、あまりに直線的で粗雑だった。
海人は半歩、右足を踏み出す。
男のナイフが大振りに空を切る。その瞬間、海人の世界から色が消え、ただ「打突部位」だけが白く浮かび上がった。
剣道の「突き」の要領。
だが、手にあるのはしなる竹刀ではなく、高硬度の特殊合金製警棒だ。
狙うは喉仏。寸止め(残心)はいらない。
踏み込みと同時に、海人は全体重を乗せた一撃を、男の喉へと叩き込んだ。
――グシャリ。
耳慣れない音がした。
竹刀が面金を打つ乾いた音ではない。濡れた雑巾を万力で潰したような、あるいは生木を無理やりへし折ったような、鈍く、湿った破壊音。
警棒の先端から、手首、肘、肩へと、男の喉の軟骨が砕け、頚椎が破壊される感触が不気味な振動となって伝わってくる。
男の身体が空中で硬直した。
泡を吹いていた口から、ゴボッという音と共に大量の鮮血が噴き出す。それは海人の顔面にかかり、生温かい粘着質を貼り付けた。
男は糸が切れた人形のように崩れ落ち、二度痙攣して、動かなくなった。
静寂。
その直後、強烈な腐臭が立ち込めた。
死の瞬間に括約筋が弛緩し、男の垂れ流した排泄物の臭いが、血の鉄臭さと混ざり合って襲いかかってきたのだ。
「う……」
海人は警棒を取り落とし、膝をついた。
勝利の昂りなどない。あるのは、自分が「人間」という有機物を破壊してしまったという、生理的な拒絶反応だけだ。
「オォ、ェッ……!」
マスクを引き剥がし、アスファルトの上に胃の内容物をぶちまける。
喉が焼けつくように熱い。目の前には、首があり得ない方向に曲がった男の死体。白目を剥いたその顔は、先刻まで生きていた人間だ。
俺が殺した。俺が、殺した。
「ああ、ありがとうございます……! あなたのおかげで……!」
涙声が聞こえた。
顔を上げると、髪を掴まれていた女性が、這いつくばりながら海人の足元にすがりついていた。
「殺されるかと思った……怖かった……ありがとう、執行官様……ありがとう……!」
彼女の目には、海人に対する恐怖など微塵もない。あるのは、救世主を見るような純粋な崇拝と感謝だけだった。
周囲の野次馬からも、パラパラと拍手が起こり、やがて歓声に変わる。
警官たちが安堵の表情で駆け寄ってくる。
――これでいいのか?
海人は口元の汚物を袖で拭った。
この吐き気も、手の震えも、彼女の涙の前では「必要な代償」になるのか。
「……職務です」
海人は嗄れた声でそう答え、震える手で警棒を拾い上げた。血と脂でぬめるグリップの感触が、掌にこびりついて離れなかった。
帰宅したのは深夜だった。
母と妹を起こさないよう、音を立てずにリビングに入る。
テーブルの上には、ラップのかかった夕食が置かれていた。妹が作ったハンバーグだ。
海人は椅子に座り、ラップを外した。
ケチャップとソースが混ざった赤黒いソースがかかった、ひき肉の塊。
その瞬間、昼間の光景がフラッシュバックした。
喉を破壊した時の、あのグシャリという感触。
男の口から噴き出した鮮血の色。
死体が放っていた、あの鼻が曲がるような排泄物の臭い。
「うッ……」
海人は口元を押さえ、トイレに駆け込んだ。
胃の中は空っぽなのに、えづきが止まらない。
便器に顔を突っ込みながら、海人は涙を流した。
自分の手を見る。何度洗っても、爪の間に血が入り込んでいるように見える。
今日、俺は英雄になった。
そして今日、俺は人殺しになった。
鏡に映る自分は、ひどく青ざめていて、その瞳だけが獣のようにギラついているように見えた。
(第2章 完)




