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血の天秤  作者: 小林春


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第1章:飢えたる国、錆びた剣

空はいつも鉛色をしている。

かつて人々が思い描いた近未来は、輝く摩天楼と空飛ぶ車に彩られていたはずだ。だが、204X年の東京を覆っているのは、PM2.5と廃棄熱、そして行き場を失った人間の怨嗟が混じり合った濁った大気だけだった。

 天城海人あまぎ かいとは、路地裏の水たまりを避けながら、自宅への道を急いでいた。

 擦り切れた革靴の底を通して、アスファルトの冷たさが足裏に伝わってくる。駅前の巨大なホログラム広告が、最新のAI搭載型介護ロボットを宣伝していた。「人間よりも優しく、家族よりも献身的に」。そのキャッチコピーが、海人の網膜を焼くように明滅する。

 皮肉な話だ。そのロボット一台分のコストがあれば、海人のような人間の労働力は百人分雇える。だが、企業は初期投資が高くても、文句も言わず、疲労も知らず、権利も主張しない機械を選んだ。

 築四十年の木造アパートに帰り着くと、湿気た畳と、安っぽい合成食料の独特な甘ったるい匂いが鼻をついた。

「おかえり、兄さん」

 奥の部屋から、妹の紗季の声がした。十七歳になる彼女は、本来なら高校に通い、友人たちと笑い合っているはずの年齢だ。だが、今の彼女は内職の電子部品組み立てに追われている。指先は荒れ、節くれ立っていた。

「ただいま。母さんの様子は?」

「さっきまで咳が酷かったけど、今は眠ってる。……薬、もう切れるよ」

 紗季の声には非難の色はない。ただ、事実を淡々と告げる響きが、海人の胸を締め付けた。母の肺を蝕む病は、高度医療を受ければ完治する。だが、今の天城家にそんな金はない。

 海人はテーブルの上に、今日の日雇い労働で得たわずかな現金を置いた。AIの補助作業員。単純で、誰にでもできて、何の達成感もない仕事。それすらも、奪い合いだ。

 深夜、家族が寝静まったあと、海人は端末の画面を見つめていた。

 『特別治安維持執行官 募集要項』

 画面に踊る文字は、まるで悪魔の招待状のようだった。

 月額報酬、百二十万円。加えて、家族に対する最優先医療パスポートの付与。

 破格、などという言葉では生温い。魂を売る値段としては、妥当か、あるいは安すぎるか。

 海人は自分の手を見つめた。かつて竹刀を握り、全国を制した手。マメは消え、白く細くなっている。

「……やるしかないのか」

 独り言は、湿気た壁に吸い込まれて消えた。

 最終面接会場は、都心にある政府合同庁舎の地下深くだった。

 無機質な白い部屋。壁一面のマジックミラー。中央に置かれたパイプ椅子。

 海人の前には、三人の面接官が座っていた。彼らの顔は逆光で見えないが、値踏みするような視線だけが、肌に突き刺さるのを感じた。

「天城海人。二十七歳。元全日本剣道選手権覇者。某国立大学法学部卒。……経歴は申し分ない。体力、知力、判断力。この国が捨ててしまったエリートの残骸だな」

 中央の男が、嘲るように言った。海人は膝の上に置いた拳を握りしめ、表情を殺して答えた。

「過分な評価です」

「動機は金か? それとも、腐った社会への義憤か?」

「家族を守るためです。それ以外に理由はありません」

「正直でいい」

 男は手元の資料をめくった。乾いた音が、静寂な部屋に響く。

「では、最後の質問だ。これはシミュレーションではない。君の倫理観と覚悟を問うものだ」

 男の声色が、一段低くなった。

「君は繁華街で、凶悪犯と対峙している。犯人は覚醒剤の影響下にあり、錯乱している。彼は通りがかりの母親から赤ん坊を奪い、その喉元にナイフを突きつけている。犯人の指は引き金にかかっているも同然だ。君との距離は十メートル。君の手には拳銃がある」

 海人はゴクリと唾を飲み込んだ。喉が張り付く。

「威嚇射撃は通用しない。説得も不可能だ。君が動けば、あるいは一秒でも躊躇すれば、赤ん坊は殺される。……さて、執行官候補生。君ならどうする?」

「……犯人の眉間を撃ち抜きます」

「ほう。だが、犯人は赤ん坊を盾にしている。君の射撃がわずかでも逸れれば、あるいは弾丸が貫通すれば、赤ん坊も死ぬぞ」

「それでも、撃ちます」

 海人の声は震えていたが、言葉は途切れなかった。

「犯人を撃たなければ、赤ん坊の生存確率はゼロです。私が撃てば、リスクはあれど生存の可能性が生まれる。……それに」

「それに?」

「私が撃たなければ、その犯人は赤ん坊を殺した後、さらに多くの市民を害するでしょう。一瞬の躊躇が、被害を拡大させる。ならば、私は可能性に賭けて引き金を引きます」

 面接官たちは沈黙した。数秒が、数時間にも感じられた。

「……赤ん坊ごと撃ち抜く覚悟はあるか、と聞いているんだ」

 さらに追い打ちをかけるような問い。海人は目を閉じ、病床の母と、やつれた妹の顔を思い浮かべた。そして、かつて剣道の師に教えられた言葉を反芻した。『剣は迷えば人を殺す。迷わずば、活人剣となりうる』。

 海人は目を開けた。そこには、冷え切った、暗い光が宿っていた。

「必要ならば。それが、より多くの命を救うための唯一の選択肢であるならば、私はその罪を背負います」

 一週間後。

 海人は再びその庁舎にいた。

 任命式は事務的で、呆気ないものだった。国歌斉唱もなく、高邁な訓示もない。ただ、一枚のIDカードと、重厚なジュラルミンケースが手渡されただけだ。

 ケースの中には、漆黒の自動拳銃『S&W M&P9 2.0』のカスタムモデルと、特殊警棒、そして予備のマガジンが整然と収められていた。

 銃を手に取る。ずしりとした重み。

 冷たい。

 まるで氷塊を握っているかのようだ。オイルの匂いが鼻孔をくすぐる。

 これが、人の命を奪うための道具。

 これが、母の薬代であり、妹の笑顔を取り戻すための代償。

『おめでとう、天城執行官。君は今日から、この国の正義だ』

 担当官の言葉が、ひどく遠くに聞こえた。

 海人は銃の冷たさを掌に焼き付けながら、奇妙な感覚に襲われていた。

 吐き気のような嫌悪感の奥底で、何かが疼いている。それは、行き場のない怒りと絶望を、この暴力装置によって叩き潰せるという、暗くねじれた全能感だった。

 建物の外に出ると、相変わらず空は鉛色だった。

 だが、海人の目には、行き交う人々がそれまでとは違って見えた。

 彼らは人間ではない。守るべき対象か、あるいは排除すべき対象か。

 その二種類にしか見えなくなっていた。

 海人はジャケットの内ポケットに、重たい鉄の塊を押し込んだ。

 心臓の鼓動が、早鐘のようにうるさかった。

(第1章 完)

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