月なき夜に降る宝石
「あの……ヴァルさんですよね?」
その声に、ヴァルは動揺を悟られぬよう、素早く振り返った。
久しく誰かに名前を呼ばれることなどなかった。
振り返ると、手のひらから次々と麦を袋に注ぎ込んでいる聖女、アナスタシアの姿があった。
アナスタシアの護衛を任されるようになってから、幾月もの時が過ぎていた。
だが、彼女から直接声を掛けられるのは初めてのことだった。
「他の方と少しお話しして、皆さん、あなたのことをよくお話ししてくれるので……」
その言葉に、ヴァルは呆れたように小さくため息をついた。
奴隷兵士は、命令なく言葉を交わすことを禁じられている。
もしこのやりとりがガルザックに知られれば、懲罰牢行きは避けられない。
(……面倒だ)
心中で短く息を吐くも、表情には微塵も出さない。
アナスタシアの無邪気な声が、どこか彼の不安を煽るようだった。
彼女が寄せる信頼が、かえって自分を危険に晒しかねないことを、ヴァルは知っていた。
「あ!いえ、話したというか、私がこうして食べ物を増やしている間、皆さんには独り言を聞いていただいているだけで……」
アナスタシアは微笑みながら作業を続ける。その表情には、計算や策略の影は一切なかった。
彼女の笑顔は、真っ直ぐで、眩しくて、ヴァルにはあまりに遠いものに思えた。
純粋さとは、かくも危ういものなのか。
ヴァルは冷静さを装いながら、内心で小さく首を振る。ヴァルは少し眉をひそめ、口元を隠す布をグイッと押し下げた。
「そう思うのなら静かにしていただけますか?聖女様」
その言葉は低く、冷たく響いた。アナスタシアの優しさとは対照的な、鋭い響きが含まれていた。アナスタシアの表情が一瞬曇ったが、彼女はすぐに穏やかな笑みを浮かべて応じた。
「申し訳ありません。そんなつもりでは……」
彼女の目は優しさと誠実さに満ちており、真摯な気持ちが滲んでいた。しかし、その純粋さがヴァルには逆に不安要素として映る。
「ええ、わかっています。ただ、あなた様のお慈悲を頂けるのであればもう我々に話掛けるのはおやめください」
ヴァルの冷静な口調がアナスタシアに向けられた。彼女は少し考え込んだように見えたが、すぐに小さく頷いた。
「わかりました……」
アナスタシアは再び手元の作業に戻り、麦を袋に注ぎ続ける。彼女の穏やかな姿勢は変わらず、疑いの余地が一切ないほど純粋である。その姿が、ヴァルにとっては逆に緊張を生んでいた。
(静かにしていて欲しい。余計なことを口にすれば、問題が起きる)
心の中でそう念じながら、ヴァルは視線を再び周辺の警戒に専念した。
◇◆◇◆
今日は特別な日だった。
王との謁見の日。
アナスタシアは緊張と不安を胸に、馬車に乗り込んだ。彼女の顔にはいつもの微笑みが浮かんでいたが、その微笑みの端には、何か深い影が揺れているようだった。王の命令により、彼女の能力が評価される日。彼女の奇跡の力が王と貴族たちの目の前で実演されることになっていた。
王宮の大広間は貴族たちで埋め尽くされ、貴族の服飾や装飾品が煌々と輝き、圧倒的な格式と重厚感に満ちていた。石造りの高い天井から吊るされたシャンデリアが、無数の燭台に照らされた光を反射し、まるで宝石の海のように輝いている。
アナスタシアはその中央に立ち、王の目の前に姿を現した。その立ち姿は威厳があり、美しい衣装が彼女の優雅さを引き立てていた。しかしその表情には、内に秘めた迷いが色濃く影を落としていた。
そして、その端の目立たない場所――大広間の端、目立たない席にヴァルが静かに立っていた。その場所は、謁見を見守る護衛の役割を担う兵士たちの控えめな位置であり、目立つことなくその場にいられた。
「……」
ヴァルは無言のまま、冷静に周囲を観察していた。アナスタシアが奇跡の実演を行っている間、彼の目は人々の表情や態度、何より異様な緊張感を捉えていた。貴族たちの瞳にある期待や興奮が、その場の空気を満たしている一方いた。
(くだらんな……)
彼の心の中で、冷たい声が囁いた。それでもヴァルは静かに、自分の役割である護衛の姿勢を保ちつつ、アナスタシアの周囲に注意を向け続けた。
アナスタシアが手から光る宝石を生み出すと、広間にいる貴族たちの歓声が一気に高まった。
「美しい!」「なんて奇跡だ!」
貴族たちのその反応に紛れて、ヴァルは手早く目を配る。周囲の貴族たちが歓声を上げ、アナスタシアの手から溢れ出す美しい宝石に息を呑んでいる。しかし、彼自身の立ち位置は「端の目立たない場所」であり、そこは人々の注目を引く場所から遠く、陰りに包まれた一角だった。
その場所で彼が意識していたのは、自分が「気づかれないこと」。役目として、必要以上に目立たない姿勢を保ちながら、広間に漂う空気や人々の様子を手早く観察していた。
アナスタシアの顔や仕草、手のひらから出てくる光景――それらが目に入るたび、貴族たちが満足げに笑い、驚き、そして歓声をあげる様子が目に飛び込んできた。だが、それらの反応はヴァルにとっては他人事のようだった。彼は何よりもその状況に対して冷徹な視線を注いでいた。
アナスタシアの手のひらから輝くようにして生まれ出た宝石は、まるで流れ星のように美しく、しばしの間、彼女の手から眩い光を放っていた。しかし、ヴァルの目にはそれは単なる「見世物」に過ぎなかった。
彼の胸の中で、無意識のうちに感情が冷えた。
「美しい……」という貴族たちの反応も、その手から生み出される宝石の輝きも、「奇跡」などではなく、まるで褒められた道化が踊っているかのような感覚が心に広がった。
(奇跡は商売道具か……)
その冷めた思いが彼の脳裏をよぎった。
道化としての輝き、見世物としての価値――そんなものに踊らされる貴族たちの様子を見ると、ヴァルの心はますます冷たくなる。アナスタシアがこの光景を何を考えているのか、その真意は知る由もない。だが、ヴァルはその場に漂う浮世離れした感覚に、内心で失望を抱えていた。
彼が護衛としての立ち位置からこの光景を見つめる間、周囲では歓声が高まり、アナスタシアは更に宝石を手から溢れさせる。その輝きは華やかで美しい。しかし、その輝きがヴァルの目には虚飾のように映り、次第に彼の胸の違和感が大きくなっていった。
ヴァルの目には、この眩いばかりの演出と、その背後にある王族や貴族たちの歓声が、どこか空虚で、嘲笑を含んでいるように感じられた。
彼は思った。
自分は何を見ているのか?
こんなことに意味はあるのか?
その冷徹な視点は、貴族たちの夢と現実の光景に、少しずつ霧のように溶け込んでいった。
彼は目を細め、その光景をそのまま静かに見つめ続けた。
まるで舞台裏の暗闇に立つ、見世物小屋の客観的な観客のように。その瞳には、何の期待も、何の驚きも、何の感情も映っていなかった。
ヴァルはふっと窓の外を見た。
全身を布に覆い、目元だけがわずかに覗くその顔は、どこか冷徹で醒めた表情を浮かべていた。
月のない夜だというのに、窓の向こうには静かな闇が広がっているだけだった。
だが、宮殿から漏れる灯りが、辺りの空を金色に染め、星々の輝きをすべて打ち消していた。
その明かりが、まるで彼の視界の外にある何かを遮断するかのように。
彼の目に映るのは、広がる夜空ではなく、煌々とした人工の光と、その明かりが生み出す歪んだ輝きだった。
何も見えない――その無限の暗闇に、彼の心が少しだけ揺れたような気がしたが、すぐに振り払った。
目を細め、再びその明かりをじっと見つめる。
星々の輝きは、何一つその場所には存在しなかった。
ただ、静寂と光だけが、彼の視界に広がっていた。




