無窮の聖女
次の日の朝、薄い雲が空を覆い、教会の尖塔が霞んだ陽光に照らされていた。ヴァルは深い息を吐き、冷たい風に身を委ねる。聖女の護衛として同行するため、教会へ向かう準備を整えた。
「……いくぞ」
彼が振り向くと、後ろには全身を布で覆い、目元だけを露出させた何人もの奴隷兵士たちが、静かに立っている。その姿は異質で、視線を向ける街の人々は不安げに目をそらしていた。
彼らは何も答えず、奴隷兵士として決められた仕草で確かに答えた。
ヴァルは奴隷兵士たちを率い、緊張感漂う足取りで教会へと向かう。石畳の道を進み、やがて静かに教会の扉が見えてきた。その扉を開けると、穏やかな声が彼らを迎えた。
「おはようございます。お待ちしておりました」
教会の僧兵と思われる男性が出迎えに立っていた。その顔立ちはどこか素朴で、あたたかな雰囲気を漂わせていた。
「こちらです。どうぞ」
その男性の言葉に従い、ヴァルたちは教会の敷地を通り、内側へと導かれた。
敷地内は明るく、花が並ぶ小道が整えられており、子供たちの笑い声がどこかから聞こえてきた。その光景に心がわずかに和んだ。
そして目の前に広がったのは、平和な朝のひととき。数人の子供たちが輪になって何かを楽しそうにしている。彼らの中心には、一人の女性が立っていた。その女性は、髪をゆるく束ね、淡い色のエプロンをまとって、子供たちにパンやミルクを手渡している。
彼女の姿を見たヴァルは、自然と息を止めた。彼女は普通の女性だった。特別な輝きや神秘性はなく、ごく普通の、ただ優しさをまとった女性だった。
「おはよう、みんな」
女性が明るく笑いかけると、子供たちは嬉しそうに笑顔を返し、手を伸ばした。ヴァルはその姿を見ながら心が締め付けられるような思いが走った。
「おかわりはまだあるよ。いっぱい食べて今日も元気に遊ぼうね」
彼女は子供たちに優しく語りかけながら、朝食を配り続けた。その声色は素朴で、飾られていない、ただ心の通った声だった。
ヴァルは思った。彼女がどれほどの立場にあるのかは知らないが、その姿は「聖女」と呼ばれるような特別な存在とは思えなかった。ただ、彼女が優しさと真心を持って、目の前の子供たちを気遣っている。その姿勢に心が揺れた。
(……彼女が“聖女”……?)
ヴァルは胸の中で呟いた。
教会の中は穏やかな時間が流れていた。その中心で彼女の姿が自然と溶け込んでいた。
聖女の名はアナスタシアと言った。
彼女の存在は、ある種の神聖さと不思議な力をまとっていた。その手に触れるものは、必ず豊かさに満ち溢れた。彼女が手を差し伸べれば、目の前には無限とも思える供給が広がった。
米を手のひらに乗せれば、それは次々と豊かな穂となり、どれだけ掬っても減ることはない。ワインのボトルを開ければ、濃密で芳醇な香りが漂い、杯に注がれた液体は輝くほどの深紅色をしている。金銀の延べ棒や、美しい彫刻を施した宝石までも、アナスタシアの手元に収まるやいなや、無限に増え続けた。
その力は奇跡とも呼ぶべきものだった。
ある時、一介の村女であったアナスタシアを国が迎えを寄越した。彼女の存在が、人々の間で奇跡と畏怖の対象となっていたからである。
国王の前に立たされたアナスタシアは、その手の中に無限の力の証を示し、国の貴族や軍部、官僚たちを驚嘆させた。アナスタシアが示す力は、確かに異質であり、これを手中に収めれば国は永遠の繁栄を約束されるとさえ囁かれた。
「この奇跡を、我が国の宝としよう」
国王のこの一言が全てだった。アナスタシアの力を自分のものにし、制御するため、彼女を安全かつ確実に監視下に置くことが必要だと考えたのだ。その結果、アナスタシアには、僧兵や王国直属の騎士団が厳重に守る「教会の一室」が与えられた。
それは実質的な監禁であった。
国王は彼女に自由を制限し、権力を握ることで、自らの地位を確保しようとした。アナスタシアの力は大きすぎたため、外に出れば国や周囲の安定が失われる可能性がある。そのため、監禁という名目で「教会の一室」を彼女に与え、彼女の力を独占しようとしていた。
この措置は表向きには「安全の確保」と説明されたが、その真実はアナスタシアに対する権力の抑圧であり、自由を奪うための陰謀だった。
アナスタシアはその提案を受け入れるしかなかった。
戦争が始まると、アナスタシアの仕事は広い倉庫の中で、ただ米や麦、それに食材をただ増やすこととなった。
日がな一日、彼女は何もかもを増やす作業に没頭していた。手を差し出せば、豊かな穂が手のひらから溢れ、次々と倉庫の中に積み重なっていく。手を動かせば、麦が、野菜が、そして穀物が、途切れなく広がる。それらは手品のように、永遠に増え続ける。
その広大な倉庫の中には、どれほど積み上げても空きスペースが残ることがなく、すべてが豊かさに満ち溢れていた。アナスタシアは無表情で作業を続ける。彼女の手が何度も何度も動くたびに、倉庫の壁を越えて物資が増えていく。
外では戦争が熾烈に続いている……らしい。兵士たちは絶え間なく戦いを繰り広げ、弓矢が飛び、剣が交錯している。しかしアナスタシアの手元には戦いの音や血の匂いは届かない。ただ、自身の手から生まれる穀物と食材だけが、彼女の仕事として与えられた使命だった。
「お迎えに来てくださってありがとうございます。支度が遅くなって申し訳ありません」
アナスタシアが静かな声で奴隷兵士たちに向けて挨拶をすると、そのうちの一人がわずかに目を丸くした。奴隷兵士たちは言葉を交わすことが禁じられているが、彼女の声に驚きを隠せないようだった。
その目を細めてアナスタシアを見つめる者もいれば、何も言わずに前を向いたまま、身を引き締めていた。アナスタシアはその様子を見て特に気に留めることなく、用意された馬車に乗り込んだ。
馬車は静かに揺れながら、石畳を進んでいく。外の風景は曇りがちな空と、灰色の城壁、そして戦争の影響で疲れ切った街並みが続いていた。アナスタシアの心には、今日の仕事に対する淡い不安が渦巻いていた。
仕事場である倉庫は、物資を生み出し、そして補充するための場所だった。
その場所へ向かう馬車の中、彼女の姿は威厳ある聖女のようにも見えず、むしろただひとりの女性、平凡で何も特別ではない普通の人間に見えた。
倉庫は巨大で、外観はその規模を見ただけでも圧倒されるほどだった。周囲には人が行き交い、物資が運び込まれては整理されていく。アナスタシアが馬車から降りると、すぐに数人の兵士が迎えに来た。彼らは彼女を案内し、倉庫の内部へと向かう。
アナスタシアはそのまま、倉庫の扉へと足を踏み入れた。冷たく湿った空気が倉庫の中から漂い、膨大な数の穀物や野菜、その他食材が秩序正しく並んでいるのが目に入った。
「さあ、始めましょうか」
彼女は声を小さくつぶやくと、手を差し出した。手のひらから、次々と豊かな穂や麦、そして食材が生み出される。周囲の兵士たちは黙ってそれを見ていた。何も言葉は交わさず、ただ彼女が手を動かす様子を注視する。
アナスタシアは、今日もまた終わりの見えない作業の時間を迎えていた。




