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番人の葬儀屋  作者: あじのこ
第5章 巌窟のアルカナ
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記憶の喪失

これは夢だと思った。

なぜなら自分は千年も前の昔の格好をしていたからだ。


それは粗末な布で頭と口元を覆い、ただ目だけを露出した姿。

それはこの国では奴隷兵を象徴するものだった。忌まわしい存在として、すべての人々に恐れられ、嫌われていた。


だが、彼女は違った。


彼女の視線はいつも暖かく、憎悪や偏見とは無縁だった。その目は、自分が誰であるかではなく、どうあるかだけを見てくれていた。


夢の中の自分は、彼女の笑顔を思い出していた。白いドレスを身にまとい、夕陽の中で庭の花々を摘むアナスタシア。彼女の声が聞こえる。


「この花、きれいでしょ? 貴方に似合うと思うの。」


庭で摘んだ花々を編み込んだ冠は、心のこもった美しさを持っていた。

アナスタシアの細い指が一つひとつ花を選び、茎を織り合わせて作ったその冠には、彼女の心の温もりが宿っていた。


冠の先端には、彼女が特別に選んだ一輪の赤いバラが飾られており、それが全体を引き締めるように目を引いた。


「うまくできたかな?」と、頬を染めながら自信なさげに微笑む彼女の顔が脳裏に浮かぶ。

その冠を自分の頭にそっと乗せてくれた瞬間、花の香りがほんのりと鼻をくすぐり、彼女のぬくもりとともに心に深く刻まれた。

その花冠は、彼女が日常の中で紡いだ、静かで純粋な愛の象徴だった。


――そうだ。彼女は、奴隷兵としての自分にさえ手を伸ばした唯一の人だった。

穢れた存在だと罵るのではなく、ただそこにいる一人の人間として見てくれた。


ヴァルはアナスタシアの指先から生み出されるものに、いつも感心させられていた。


彼女には、手の中に収まる物を増殖させる奇妙な能力があった。


小さな石や花、果実を次々と増やしては、まるで魔法のように周囲を驚かせ、人はそれを奇跡と呼び、彼女を聖女だと崇めた。


けれどヴァルが本当に驚嘆したのは、その力ではなく、彼女の指先から生まれるものに宿る、何ともいえない繊細さだった。


例えば、庭の花を摘んで作った花冠。彼女の細い指は迷いなく動き、茎を編み込むリズムは、まるで音楽を奏でるようだった。茎が絡まり、花が一つひとつ配置されるたびに、自然と調和した美しさが形になっていく。

その過程をただ眺めているだけで、彼女の生き生きとした表情や指先の器用さに心を奪われた。

さらに、木の実を糸で繋いだ装飾や、乾いた葉で作った簡素な器まで、彼女が作るものにはどこか暖かみがあった。彼女はそれらを全て育ててくれた祖母から学んだという。


それらは増殖の力で増やされた単なる「もの」ではない。時間をかけ、丁寧に編み込まれた細部には、アナスタシアそのものが宿っているようだった。


ヴァルは密かに思った。

ただ増やせばいいってものじゃないんだ。彼女は、手の中にあるものをどう扱うかを知っている。それが一番すごいんだ……。


そう考えると、彼女の器用な指先が織りなすその美しい作業を、永遠に見ていたくなる気がした。そう。永遠に。


目覚める直前、彼女の姿だけが朧げに浮かんでは消える。


手を伸ばす。

届かない。


彼女の背中が遠ざかっていくのを、ただ見送るしかできなかった。血の気を失った唇、静かに閉ざされた瞳。その表情はどこか儚く、どこか安らかで――。


次の瞬間、ヴァルの意識が激しく現実へ引き戻された。胸の奥が弾けるような感覚と共に、体が反射的に跳ね起きる。そして、吐き気が一気に襲いかかった。


地面に手をつきながら肩を震わせ、喉の奥から搾り出すような音を立てるが、何も出てこない。それでも胃が捩れるような不快感は止まず、無理やり吐き出す動作が続く。


視界はぼやけ、頭の中は鈍い痛みでいっぱいだった。呼吸は荒く、肺が焼けるような感覚さえする。体全体が冷たい汗に覆われ、肌に触れる空気が妙に鋭く感じられる。


「おい!!大丈夫か?」


声が耳に届いた。低く、けれどどこか心配そうな響き。ヴァルは踞り、顔を上げることもできず、ただ肩で呼吸を繰り返す。体を支えようと伸ばされた手が目の端に見えた気がしたが、その感覚さえも現実なのか夢なのか曖昧だった。


やがて、自分に声を掛けられているのだと気づき、ヴァルはゆっくりと顔を上げた。視界に映ったのは、埃にまみれた顔の少年。心配そうな表情を浮かべているが、その稚拙さがかえって苛立ちを誘う。


「……おまえ、だれだ?」


ヴァルは袖で乱暴に口元を拭いながら問う。言葉はぞんざいだが、その声は掠れ、どこか不安定だった。少年は返答をためらうようにきょとんと目を丸くし、視線を隣に向ける。


そこには狐の獣人が腕を組んで立っていた。彼は片耳だけをぴくりと動かし、じっとヴァルを見下ろしている。その姿を捉えた瞬間、ヴァルの中で微かな波紋が広がった。


「おまえは……イシードロか?」


低く絞り出すように呟いた言葉に、ロッソの耳が再び動く。だがすぐに鼻で笑い、肩をすくめた。


「イシードロ?そりゃ俺のひいひい曾祖父さんだな。あんた……本当にどんだけの時代を生きてんだ?」


その皮肉めいた口調に、ヴァルは一瞬眉をひそめる。イシードロという名が口をついて出たのは、身体がその存在を「知っている」と叫んでいるからだ。だが、その記憶が魂に伴わず、霧の中でぼんやりとした輪郭を持つだけだった。


「……オレは……あの時……」


ヴァルの独り言は続かなかった。代わりに、彼の視線が自分の手に落ちる。手を伸ばし、何かを掴もうとするような仕草をするが、その先には何もない。


少年が不安げにロッソを見上げる。


「ロッソ!本当にヴァルは大丈夫なのか?」


どう見てもおかしくなっちまっているぞ!と、叫ぶバッシュにロッソはため息をつき、ヴァルを見つめたまま答える。


「大丈夫じゃねぇさ。ただでさえ1000年も時を超えた人間だ。魂と身体が分かれてたんだろうよ。おまけにまた繋がり始めたんじゃ……記憶が合うわけがない」


言いながら、ロッソは顔をしかめる。長い時を生きてきた存在特有の混乱と苦痛――それを知る彼は、内心ではヴァルに少なからず同情していた。だが、それを表に出すことはしない。


ヴァルはぼんやりと顔を上げ、ロッソを見据える。


「……魂が戻った……?……なぜオレは……」


言葉は途切れ、代わりに瓦礫の隙間から吹き込む冷たい風が耳を刺した。視界の端に、微かな青白い光が揺れる。ロッソはそれを横目で確認すると、軽く舌打ちをして言った。


「おまえ、いっそ全部忘れちまったほうが楽なんじゃねぇか? そんなに苦しいならよ」


皮肉にも聞こえるその言葉に、ヴァルは反応を見せなかった。ただ、彼の中で絡み合う魂と身体の記憶が、不協和音のように響いていた。


「まぁこういう状況だから説明は省くが、悪魔と契約したアンタは1000年生きて、その間色々あって一回死んだ。そして今日、その契約を終わらせて残っていた魂を肉体に戻したんだ」


ロッソは腕を組んだまま、ぞんざいに言い放った。その言葉に込められた真意や重みを隠すように、軽い調子で片付けたのだった。


「おわらせた……?」


ヴァルは、まるでその言葉の意味を噛み砕けずにいる幼子のように呟いた。その声には、戸惑いと微かな不安が滲んでいる。


目の前で青白い光が揺れる。それをちらりと見たロッソは、ため息をつきながら肩をすくめた。


「そうだよ。契約終了だ。つまり、悪魔に魂の半分を預けてた借金生活も、ようやくチャラになったってことだ」


ヴァルはぼんやりとロッソを見つめる。だが、その瞳はどこか遠くを見ているようで、いま彼の中で何が起きているのかを、誰にも伺い知ることはできなかった。


「……だが、その代わり記憶も色々とズレてるだろうよ」


ロッソはヴァルの沈黙を無理に破ろうとはせず、適当に話を続ける。


「1000年も悪魔と契約してたんだ、魂と身体が別々に動いてた期間も長いんだろう。それが戻ったってんなら、不具合が出るのも無理はない。まぁ、身体は覚えてても、魂は違うと思い込んでる――そんな感じじゃねぇか?」


ヴァルは、彼の言葉に反応することなく、ただ自分の手を見つめていた。指先をわずかに動かしながら、その感覚を確かめるようにする。まるで、自分自身を探るように。


「……終わらせた……」


小さく繰り返すその声は、自分自身に言い聞かせるかのようだった。だが、そこには確信も喜びもない。ただ、何かを掴もうとしながらも、それが霧散していく感覚だけが残っていた。


ロッソはその様子をじっと見つめ、やがて小さく鼻を鳴らす。


「ま、とにかく生きてんだ。あとは自分で思い出すんだな」


その言葉は皮肉にも聞こえたが、同時にどこか突き放すような優しさも含んでいた。


だがヴァルは突然、ロッソの胸ぐらを掴んだ。

その勢いに驚き、ロッソは一瞬言葉を失う。


「アナスタシアは……彼女の体はどうなった!?」


ヴァルの目は血走り、必死さがその声に滲んでいた。肩で息をしながら、今にも崩れそうなほど憔悴しきっている。しかしその手の力は強く、ロッソの胸元をがっちりと掴んで離さない。


「オレが知るわけねぇだろ!!」


ロッソは眉間に皺を寄せてヴァルを睨み返し、掴まれた胸元を振りほどこうとする。しかし、ヴァルの力は異様に固く、ロッソも仕方なくそのまま応じるしかなかった。


「お前の魂を戻すのに必死だったんだよ!!それ以外のことなんて、構ってる余裕なんざなかった!」


吐き捨てるように言ったロッソの声には、怒りと苛立ち、そしてわずかな焦燥が混じっていた。


「オレは……オレはただお前を救うために動いてたんだ。アナスタシアがどうなったかなんて、そんなもん知るか!」


ヴァルの手が震える。口を開こうとするが、言葉が喉で詰まる。その名を口にするたび、彼の中で渦巻く感情が溢れそうになる。


「……彼女はまだあの洞窟に……いるのか?」


ヴァルの声は、先ほどの叫びとは打って変わって低く、かすれたものだった。掴んでいた手がゆっくりと緩む。

ロッソはその手を払いのけ、胸ぐらを直しながら深く息を吐いた。


「置いてきたも何も、オレはお前の命を繋ぎ止めるのに精一杯だったんだ。それが嫌なら、自分で確かめるてこいよ」


ヴァルはその言葉に返すこともせず、うつむいたまま拳を握りしめた。その指先は白くなるほど強く力が入っている。


「……アナスタシア……」


彼女の名を呟くその声は、もはや自分自身を慰めるためのものに近かった。


ヴァルはふらふらと立ち上がり、瓦礫の中を進み始めた。足元が不安定で、何度もよろめくが、それでも彼の歩みは止まらない。


「おい……!」


ロッソが声をかけるが、ヴァルの足取りは強く、揺るがなかった。ロッソの言葉が虚しく瓦礫の風にかき消される。


「扉が……扉があるはずだ……」


その呟きは、どこか現実感を失ったもののように聞こえた。目が虚ろで、何かを見ているようでありながら何も見えていないかのようだった。


バッシュはその背中を呆然と見送った。心の中には何かが鈍く、そして冷たく響く。


(……なんだ、この感覚)


自分がヴァルにとって、もうどこにも存在しないかのような気がして、心臓がぎゅっと締め付けられた。


(オレのこと……全然覚えてねぇんだな)


バッシュの中には何度も同じ問いが渦巻いた。だが、その問いは口に出ることなく、代わりにただ不安だけが重たく胸の中に残る。


瓦礫の影に遠ざかるヴァルの背中を見ながら、バッシュは心が冷えていくのを感じた。何かが確実に壊れ、二人の間に壁ができてしまったような気がした。


ロッソはその様子を見て、何かを言おうか迷ったが、結局何も言えずに黙っていた。言葉がなくても、心の中の不安や痛みが伝わるようだった。


瓦礫の道は静寂の中で続き、彼らの足音と呼吸だけがそこに残る。


瓦礫の下から漂う煙と灰が、蒸気のように空に揺れている。足元が不安定で、疲れた心身が足取りを重くしていた。ヴァルは頭の中で何度も言葉が繰り返し襲ってくる。それらは、ぼんやりと霧のようにまとまりを欠き、何を意味しているのか分からない。


記憶――あるいはただの断片か。


混濁する意識の中で、ヴァルの目の前に映るのは過去の光景だった。

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