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番人の葬儀屋  作者: あじのこ
第5章 巌窟のアルカナ
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最期の思い

エリオスの顔に浮かんだのは、ただの狂気ではなかった。どこか満ち足りた、恍惚とした表情が彼の顔を包み込んでいた。目はうつろで、まるで何かに陶酔したかのように細められ、唇の端が微かに上がる。その表情は、まるでこれまで背負っていた全ての重圧が解き放たれた瞬間に訪れる安堵そのものだった。


街の振動が続き、岩が生き物のように動き出し、周囲が恐怖に包まれる中で、エリオスはその場に立ち尽くし、ただ一人静かに感じていた。彼の目はどこか遠くを見つめ、すべてが崩壊し、破滅に向かって進んでいることを理解しているようで、それでもその顔には深い満足の笑みが浮かんでいた。


「自由だ……これが、これが……」


その声は低く、震えながらも確かに響いた。彼の手に握られた血の杖が、ひときわ強く振動し、その震えがエリオスの体全体を包み込む。彼は、街を、世界を、すべてを呑み込み、もう逃れることのない運命の中でようやく「自由」を得たのだと感じていた。


彼にとってこれは、解放の瞬間だった。痛みも恐怖も、苦しみも無意味に思えた。すべての束縛から解き放たれたことで、彼はようやく本当の意味での「救い」を手に入れたと信じていた。その顔は、今まで見たことのないほど平穏で、安らかなものだった。


その瞬間、彼は思い出す。父親の後を継ぐほどの才能が無い自分を縛りつけていたこと。そして今、ようやくそれを超えて自由になったということを。


「……これが救いだ……」


エリオスの声は、どこか高揚し、そして途切れ途切れに響いた。その言葉の先に、もう後悔や疑念は見当たらない。彼はもう何も恐れていなかった。自分の行動が正義かどうかなんて、どうでもよかった。彼にとって、今この瞬間こそが最も純粋で、最も完璧な「解放」だった。


エリオスは、血の杖を高く掲げ、街が崩壊していく様子を静かに見守りながら、まるで神にでもなったかのような錯覚に浸っていた。彼の顔に浮かんだ笑みは、今や満足と解放の象徴であり、痛みや苦しみから解き放たれたことへの歓喜そのものであった。すべてを壊すことで、ついに本当の意味で自由を得たのだと、心の中で確信していた。


その時、地面が深く轟音を立てて鳴り響いた。街を形作っていた岩石がうねり、巨体を持つ魔物のように生き物へと変わっていく。その巨大な足が、ゆっくりとエリオスに向かって迫ってきた。


エリオスはその足を見上げ、目を細めて、少しも動じなかった。その足の動きさえも、自分が引き寄せた新たな秩序の一部だとでも言いたげに、彼は黙って見つめていた。


だが、足が一歩踏み出すと、圧倒的な重量が空気を引き裂き、エリオスを蹂躙した。まるで最初からこの瞬間を迎えるために存在していたかのように、ゴーレムの足は、無慈悲にエリオスを踏み潰す。


エリオスはその瞬間、何かに気づいたように目を見開く。だが、その表情に浮かんでいた笑みは、変わることなく消えなかった。彼は自由を手に入れたと信じていたが、その自由は、無情にも大地の中に押し込まれていく。重圧が全身を圧し、彼の体は無力に地面に押し付けられていく。


その後、エリオスの体は無惨に踏みつけられ、血の杖は地面に突き刺さり、静かに震えているだけだった。あの満ち足りた笑顔も、瞬く間に崩れ去り、彼の肉体は、まるで何もなかったかのように地面に溶け込んでいった。


彼の「自由」を手に入れた瞬間が、同時に最も無惨な破滅に変わる瞬間だった。



◇◆◇◆


ドンドンドンドンッ!!


激しく叩かれる扉の音が、静まり返った部屋に響き渡った。


バッシュは飛び起き、ぼんやりとした頭を振るようにして覚醒しようとした。


「なんだよ……こんな夜中に!」


ドンドンッ!!


扉が今にも壊れそうな勢いで叩かれ続ける。その裏から息の詰まるような声が漏れてきた。


「……バッシュ!オレだ!ロッソだ!!開けろ! 急げ!」


その声を聞き、バッシュは眉をひそめた。扉の向こうにいるのはロッソだ。慌てて扉を開けると、狐の獣人が荒い息を吐きながら中に転がり込むようにして入ってきた。


「おい、ロッソ! どうしたんだよ、こんな時間に……」


バッシュが戸惑いながら問いかけると、ロッソは返事もせず、真っ直ぐ部屋の奥に向かい、力任せにカーテンを引きちぎるように開けた。


「見ろ、外を!」


ロッソが指差した先に、バッシュは目を向けた。


そして、その光景に息を呑んだ。


夜空いっぱいに、巨大な髑髏が浮かんでいた。無機質で冷たいその目の奥には、まるで全てを見通すような冷徹さが宿っている。その下に揺らめく文字列が、縦半分に切断されたように宙に浮いていた。


「……なんだ、あれは……」


バッシュの声は震え、自然と一歩後ずさる。


「なにって葬送儀礼に決まってんだろ!けど、どう見ても普通じゃない……半分しかない。あれは……」


ロッソの声も普段の冷静さを失い、どこか怯えが滲んでいた。


「誰がやった?」


バッシュがロッソに詰め寄るが、狐獣人は首を横に振った。


「ヴァルだ。いや……ヴァルが巻き込まれたんだ。あいつが標的になっている!」


バッシュの体が硬直する。


「ヴァルが? どこにいるんだ!」


ロッソは苦々しい表情を浮かべながら、外の髑髏を指差した。


「場所はわからない。でも、あれが現れたってことは、すでにあの下で始まってるんだ。急がないとヴァルの魂は……完全に奪われる!」

「はぁ!?意味わかんねぇ……!!」


バッシュは即座に動き出した。眠気も疲れも一瞬で吹き飛び、全身が戦闘の準備に入る。


「行くぞ、ロッソ! ヴァルを取り戻す!」


ロッソは短く頷き、再び荒い息を整えながらバッシュの後に続いた。空に浮かぶ髑髏は、不気味に微笑むように揺らめき続けていた。


バッシュとロッソは宿屋の裏にある厩に飛び込んだ。外の混乱した空気が、木造の建物の中にも重く入り込んでいる。


小さな馬のトロントが、彼らの気配に気づいて短くいななき、近づいてきた。その後ろには、大きな黒い狼のような姿のエゾフが静かに控えている。


「トロント、エゾフ!」


バッシュは厩の柱に繋がれているロープを慌てて解きながら、素早く二匹を見上げた。


「ここは危ない。今すぐ逃げるんだ!」


トロントは困惑したように首を振り、後ろ足で地面を掻きながら落ち着かない様子を見せる。


「なにしてんだ!!早く行け!」


バッシュが声を荒げても、トロントは頑なに動こうとしない。その瞳は真っ直ぐにバッシュを見つめ、まるで「一緒に行く」と言わんばかりに前へ出ようとする。


「おい、こっちは時間がない!」


ロッソが苛立った声を上げる中、バッシュはぐっと拳を握り締めた。


「……ダメだ、トロント。お前はここにいても足手まといになるだけだろ!」


その言葉に、トロントは耳を伏せたが、さらに強く首を振り、バッシュの後ろに回り込もうとする。


「くそっ……!」


バッシュはトロントの前に回り込み、その顔を両手で掴んだ。


「頼む、逃げろ! エゾフと一緒に安全な場所に行け! お前まで危ない目に遭わせたくないんだ!」


トロントはしばらくの間、じっとバッシュの目を見つめていた。いつも通りの強気な目ではなく、どこか揺れるような弱さが見える。


その時、エゾフが低く唸り声をあげた。外の混乱がさらに近づいてきているのだろう。


バッシュはトロントの顔を掴んだまま、声を張り上げた。


「ヴァルのことなら心配するな! オレが、オレが絶対に連れ戻す! だからお前は逃げろ、トロント!」


トロントはバッシュの叫びに一瞬動きを止めた。しかし、その瞳にはまだ迷いが浮かんでいる。


その時――


ゴゴゴゴゴ……!


地面が低く唸りを上げ、厩全体が揺れ始めた。馬具がカタカタと音を立て、エゾフが不穏な気配に警戒するように牙を剥き出している。


「おい、これ、何かヤバいぞ!」


ロッソが周囲を見回しながら、声を震わせる。


地面が裂ける。


突如、足元から鋭い音が響き渡った。


バキィィィッ!!


厩の床がひび割れ、地面が崩れ始める。トロントが驚いて後ろ足で跳ね、エゾフがその場から素早く距離を取る。


「くそっ! ロッソ、ここを出るぞ!」

「おいおいおい……マジかよ……!」


ロッソは顔を歪めながらも、厩の出口を指差した。


「行け!トロント! エゾフ!」


バッシュが叫ぶと、エゾフが低く唸り、トロントの横腹に軽く頭突きをして逃げる方向を促す。しぶしぶながら、トロントはようやく足を動かし始めた。


「よし、その調子だ……!」


しかし、厩を出た瞬間、彼らの視界を覆ったのは圧倒的な光景だった。


街そのものが動いている――いや、生きている。


崩れた瓦礫と岩が、まるで磁石に引き寄せられるように集まり、次第に一つの形を作り上げていく。それは人型――いや、人とは呼べないほど歪な巨大なゴーレムだった。


その体は、街の建物や岩石でできており、無数の欠けた石が血管のように脈動している。顔のような部分には窓や崩れた扉が埋まり、瞳に当たる部分からは禍々しい赤い光が漏れていた。


「おいおいおい……マジかよ……!」


ロッソがもう一度呟くが、その声はバッシュの耳には届かない。ただ目の前の巨影に呑み込まれそうな圧迫感に、拳を握りしめることしかできなかった。


街全体が悪魔になったかのような光景――それは逃げ場のない絶望そのものだった。


「おい、あのゴーレム……なんだありゃ!?一体なんなんだよ!」


バッシュが息を切らしながら、崩れた街路を駆けるロッソに叫んだ。背後では、岩が震え、砂埃が舞い上がっていく。


「オレが知るわけねぇだろ!?」


ロッソが叫び返しながら瓦礫の間を飛び跳ね進んでいたが急に足を止め、その目を鋭く細めた。


「オレのジィ様が言っていたが……葬送儀礼は生身の人間に仕掛けちゃいけねぇんだ。それは……」


ロッソの顔が真剣に引き締まる。彼は言葉を選びながら、続けた。


「『神の怒りに触れる』行為だってな。」


バッシュは足を止め、その言葉に耳を傾けた。ロッソの口調に、何かしらの重みを感じ取る。


「どういうことだ?」


バッシュが問いかけると、ロッソは顔を険しくしながら答えた。


「つまり、あんな儀礼を生きてる奴に仕掛けたら、神の怒りが降り注ぐ。そんで……こんなゴーレムが生まれる。」


ロッソがゴーレムを指さしながら言うと、バッシュの顔が青ざめる。


「まさか……」


バッシュが呻いた。ロッソは黙って頷き、再び走り出す。


「やっちまったな、あのバカ……」


ロッソが呟くように言う。その声に含まれた失望と怒りが、バッシュにも伝わってきた。


ロッソとバッシュが進んでいると、前方に倒れた男の姿が見えた。それはケルメルだった。血を流し、苦しそうに息を吐きながら、地面に膝をついていた。


ケルメルは必死に体を引きずりながら、バッシュを見上げた。


「どこにいたんだ、エリオス……」


その言葉には、深い後悔と絶望が滲んでいた。バッシュはその呼びかけに戸惑い、目を見開いて立ちすくんだ。ケルメルの手元には装飾の施された杖が握られており、その杖からは微かに光が漏れていた。


ケルメルは苦しげに息を継ぎながら言葉を続ける。


「お前が……お前が、何で……こんなことを……」


震える声と共に杖が彼の手から滑り落ちる。それを見たバッシュの胸に、何か冷たいものが突き刺さるような感覚が走った。


「エリオス……父さんはお前を、ずっと守りたかったんだ。お前だけは……」


ケルメルの声には、深い愛情と取り返しのつかない後悔が入り混じっていた。彼の手は震えながら杖に向けられ、最後の力を振り絞るようにそれを持ち上げる。


「これを……お前に……」


彼はバッシュの方に杖を差し出した。儀式用の杖は、彼が家族のために守り続けてきたものだった。それが何を意味するのか、バッシュにはすぐには理解できなかったが、彼の手が無意識に伸び、杖を受け取った。


「エリオス……お前を……守れなくて……ごめんな……」


杖を握り締めたまま、ケルメルは力尽きたように地面へと崩れ落ちた。その顔には、悲しみと後悔、そしてかすかな微笑みが浮かんでいた。それは息子を愛し続けた父親の最期の想いだった。


バッシュは杖を握りしめ、立ち尽くしていた。彼の手に伝わる杖の冷たさと、ケルメルの言葉の重みが、彼の胸を締め付けていた。


「……こんなもん、俺に渡してどうしろってんだよ……」


呟いた言葉は震え、涙がこぼれそうになるのを必死にこらえた。


ロッソはその様子を黙って見守っていた。彼はゆっくりとバッシュの傍に寄り添い、その肩に手を置いた。


「……お前に渡されたってことは、意味があるってことだろうさ。そいつを大事にしろ、バッシュ。」


バッシュはロッソの言葉に答えず、ただ静かにうなずいた。そして杖を見つめながら、子供を思う父親の最期の想いを胸に刻みつけた。

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