貸家魔女
宿屋の部屋に入ると、バッシュは一目散にベッドの上に倒れ込んだ。ぎしっと音を立てる硬いベッドだったが、旅の疲れで鉛のように重くなった身体には、それすらも天国のように感じられた。
「あ〜〜……天国ダァ〜〜……!」
バッシュは顔を埋めたまま、満足げに声を漏らした。その声はどこか子どもじみていて、思わず聞いた者を微笑ませそうな響きがあった。掛け布団を適当に引き寄せ、肩に軽くかけただけで、彼はまるで意識を手放すように瞼を閉じる。
その瞬間、部屋の扉がぎい、と控えめに軋む音を立てた。しかし、音が耳に届く前にバッシュは深い眠りの中へと落ちていった。全身を覆う疲労が、泥のように彼の意識を沈ませていった。
◇◆◇◆
窓の外からは、遠くかすかに夜のざわめきが聞こえる。部屋の中には、ただバッシュの穏やかな寝息と、静まり返った空気が漂うばかりだった。
バッシュの穏やかな寝息が部屋に響く中、ヴァルはベッドの近くに立ち、しばらく彼を見下ろしていた。無防備に眠る顔は、いつもどこか抜けたような表情を浮かべているが、今は疲労のためか、さらに子どもっぽく見える。ヴァルは鼻で短く笑った。
「まったく、寝るのだけは早いな。」
呟く声はどこか温かかったが、すぐに彼は表情を引き締め、背を向ける。ポケットの中で、わずかな光がちらりと揺れた。黒いマントの懐から、リヒトがぼんやりと浮かび上がる。
「ふぁ〜……よく寝たわ。もう夜?」
生意気な声が響く。小さな光球のリヒトは、大きく欠伸をするように、わざとらしく輝きを伸縮させた。
「そうだよ。もう少し休んでいればよかったのに」
ヴァルが呟くと、リヒトは「ハイハイ」とでも言うように軽く光を揺らした。
扉の方へ向かいながら、ちらりとバッシュを振り返る。掛け布団が肩からずり落ちているのに気づき、ヴァルは一瞬迷った。だが、ベッドに戻って直してやるほどの情熱は、彼にはなかった。
「……寒くなったら自分で直せよな。」
苦笑いとともに扉の取っ手を回す。扉を静かに開けると、夜のひんやりとした空気がすぐに彼を迎えた。廊下は薄暗く、人の気配はほとんどない。足音を立てないように注意しながら、ヴァルは階段を下りて宿の外へと向かった。
外に出ると、冷たい風が彼の頬を撫でた。マナテラ巌窟街の夜は、昼間とは異なる顔を見せる。石造りの建物と迷路のような階段、そこに灯る微かな明かりが、街全体を幻想的に染めていた。ヴァルは一つ深呼吸をしてから、目の前に広がる坂道を見上げた。
「さて……少し探してみるか。」
静かに呟き、ヴァルは一歩を踏み出した。その瞳には、何かを探し求める鋭い光が宿っている。
彼の肩の近くで漂っていたリヒトが、ふとその動きを止めた。光球が瞬きするように輝きながら、口を開く。
「ねぇ、本当に見に行くつもり?そんなの……見間違えかもしれないじゃん?」
ヴァルは足を止め、少しの間だけ空を見上げた。暗い空には、洞窟の天井に灯されたわずかな明かりがちらちらと反射している。
「……そうであってくれればいいな。」
そう答えた声は低く、どこか自分自身に言い聞かせるようだった。
リヒトはしばらく沈黙していたが、やがて小さくため息をつくように光を揺らすと、ヴァルの肩近くで再び漂い始めた。
「ハイハイ、好きにしなよ。でも無理だけはしないでよね、今貴方が居なくなったら私だって困るんだから。」
ヴァルは応えず、再び歩き始めた。足音を夜の静寂の中へと溶け込ませていきながら。
◇◆◇◆
扉の内側から漂ってきたのは、記憶の中よりもさらに濃厚な煙草の香りだった。ヴァルは眉をわずかにひそめながら、足を踏み入れる。
店内は以前と同じように薄暗い。埃っぽい空気と鈍い光が、ほとんど変わらない景色を作り出している。しかし、ヴァルの目はすぐに違和感を捉えた。
『あれ、こんな感じだったっけ?』
リヒトがひそひそと囁くように言う。彼女の光が弱く揺れるたび、壁に映る影も不安定に震えた。
店の奥――以前は薄汚れたカーテンが垂れ下がり、埃をかぶった棚が並んでいた場所に、今は古びた木製の椅子とテーブルが置かれている。テーブルには煙草の灰とビンの底に残った酒の跡がこびりついていた。
椅子に腰掛ける女は、どこか場末の酒場の主人のようで、何度も擦り切れた椅子に深く腰を掛け、足を投げ出すようにリラックスしていた。薄暗い空間で、煙草の煙がゆらゆらと宙を漂い、湿った木の床が冷たく感じられる。
長い髪を無造作に垂らし、薄絹のような衣をまとったその女は、水煙草の先から立ち上る煙をゆったりと眺めていた。煙は蛇のように緩やかに動きながら、紫色に変わっては消えていく。彼女の手元の動作は優雅で、どこか計算されたような冷たさがあった。
「……貴女が、どうしてここに。」
ヴァルは低い声でつぶやくと、ゆっくりと歩み寄った。
女は煙草をくゆらせたまま、ヴァルに視線を向ける。化粧の施された顔立ちは妖艶で、薄暗い中でもその瞳だけは異様に輝いているように見えた。
「おや、珍しい客だねぇ。ヴァル=キュリア。まさかまたここに来るとは思わなかったよ。」
軽く笑う声には、少しからかいの響きが混じっていた。
「貸家魔女……」
リヒトが呟く。
女は肩をすくめながら、水煙草を再び口元に運んだ。その煙がくぐもった空間に漂うたび、室内の空気が少し歪んで感じられる。
「ナニ?用があるんでしょ?」
ゆったりと足を組み替えながら、女は問いかける。
ヴァルは少し目を伏せる。以前ここに来た時、確かに老人と奇妙な狩人たちが店にいたことを思い出す。
慎重に言葉を選びながら、ヴァルが問いかける。
「以前、この店には老人が雑貨屋かなにかをしていたと思うんだが?」
貸家魔女は煙をゆっくりと吐き出し、冷ややかな笑みを浮かべた。
「ああ、その部屋はつい最近出て行ったよ。……そういえば、急に出て行ったねぇ。」
ヴァルは短く頷きながら、微妙に目を細めた。
「そうか……」
少しの静寂が流れる。再び、貸家魔女は煙草を吸い込みながら、興味深そうに問いを投げかける。
「あのジィさんになんかようでもあったのか?」
ヴァルは少しだけ言葉を詰まらせたが、すぐに冷静さを取り戻し、目を逸らさずに答える。
「……昔の知り合いかと思ってね。」
貸家魔女はヴァルをじっと見つめ、煙草を持つ手を少し動かしてから、無邪気に口を開いた。
「ヴァル=キュリア。アンタとは先代からの付き合いだけど、アンタにも昔の知り合いってのがいるんだねぇ。」
その言葉には、ヴァルの心の奥底を探るような鋭さが感じられた。まるで彼の過去に隠されたものを知っているかのような、少し皮肉めいた響きがあった。ヴァルはその一言に微かに反応し、わずかに表情を硬くしたが、すぐにまた無表情を装った。
言っとくけど、ジィさんの行き先なんて知らないよ。」
「ああ……わかった。」
ヴァルは無言でマントの懐から小袋を取り出すと、軽く放り投げるように魔女の前に差し出した。「貸扉代だ。」その言葉と共に、袋がカウンターに軽く音を立てて落ちる。
魔女はその袋を一瞥した後、煙草の煙をゆっくりと吐き出した。
「それにしても、どうして貴女がここに?以前はもっと南の方に……」
「……ああ、王国周辺は今、もうダメさ。」
魔女は煙草をくゆらせ、目線を遠くに向ける。彼女の顔に一瞬、過去を思い出すような陰りが浮かんだが、すぐにそれは消えて、冷ややかな表情が戻った。
「アンタもそっちに行くつもりなら、気をつけな。」
その声には警告のようなものが含まれていたが、どこか投げやりな響きがあった。彼女の言葉には、彼女自身がその警告を無視して生きてきたことを暗に示すような、皮肉な空気が漂っている。
「なにか、あったのか?」
「いや、これから起こることさ」
「それは…… 」
ヴァルの投げ掛けた言葉は途中で止まった。足元がぐらりと揺れた気がした。いや、気のせいではない。
「ヴァル。アンタにも分かるでしょ。あらゆるものの境界線があやふやになってきているわ」
貸家魔女は冷ややかな視線をヴァルに向けながら低く言った。その声には、かすかな警告の響きが含まれていた。
ヴァルは何も言わず、微かに眉をひそめただけだった。
「……」
「南の方ばかりじゃない。この街もそうさ」
魔女は薄く笑みを浮かべ、水煙草を細い指で弄びながら静かに続けた。その仕草にはどこか気怠げな美しさがあり、漂う煙が彼女の周りに薄い膜を張るようにたなびいていた。
「早くこの街を去ることだね……でないと」
一瞬の沈黙の後、貸家魔女は水煙草をスッと吸い込み、ゆっくりと長く煙を吐き出した。その動作は、あたかも重たい現実を吐き出すような慎重さを帯びていた。
魔女はしばらく煙を漂わせ、周囲の空気を深く感じ取るように目を閉じる。しかし、その静寂を破るように、扉の方から、どこか不気味な気配が漂ってきた。
「……?」
その気配に気づいた魔女がふと目を開け、じっと扉の方を見つめる。ヴァルも玄関の方を振り返った。
「アンタ……誰だい?」
魔女の声には、わずかな驚きと警戒が込められていた。だが、答えはない。
扉がいつの間にか開かれていた。
静かに、ひとつひとつの音が消えていくような気配の中で、暗がりから出現したのは――
エリオス。
彼の姿はどこか影のように薄く、どこかから湧き出たように現れた。エリオスはただ立っているだけで、言葉一つ発しない。無言で、ただそこに立ち続けていた。




