この手の刃に力を宿して
ケルメルは椅子に腰を掛け、ぼんやりと街の外を見つめていた。
その目の前に広がる風景は、日が落ちる直前の薄暗い街並みと、雲ひとつない空が広がっていた。しかし、ケルメルの目に映るのは、それとは裏腹にどこか無機質で荒れ果てた印象を与える光景だった。
街を案じる気持ちが胸を締め付け、深い息が漏れる。
祓われていない霊魂の不安定さが空気を重くし、しきりに思い出されるのは、最近の街の不穏な動きだった。何かが、ゆっくりとだが確実に崩れ去っていく感覚。
「ああ……」
ケルメルの心の中で、無数の問いが渦巻いていた。彼はその重さに耐えきれず、顔を手で覆った。だが、無力感と疲労が募るばかりで、答えは出てこなかった。
唯一できることは、息子、エリオスにすべてを託すことだけだ。しかし、その息子が今、何を考えているのかはまったくわからない。
ケルメルはふと、かつて自分が行った儀式を思い出す。魂を導く儀式――。あの時も、今のように何かが崩れるような気配があった。だが、無力な自分にできることは、せいぜいその儀式を通して霊魂を祓うことぐらいだ。だが、どうにもその効果が薄れているように感じていた。
「ケガレが……この街に……これ以上蔓延らぬようにしなければ」
その時、部屋の奥の暗がりから、ひっそりと足音が響いた。
「……エリオス?」
ケルメルは振り向いた。
だが、返事はなかった。
目を凝らすと、暗がりから現れたのは、息子の姿だった。エリオスの目はどこか冷たく、遠くを見つめているようだった。ケルメルは震える声で息子の名を呼んだが、エリオスは何も言わずに無表情で立ち尽くしているだけだった。
「エリオス、どうしたんだ……?」
その言葉がケルメルの口から漏れた瞬間、エリオスは一瞬にして父親の背後に回り込んだ。ケルメルの目の前に現れたのは、息子の冷徹な顔と、煌めく鋼のナイフの刃だった。
「……!」
ケルメルは振り向く暇もなく、激しい痛みが腹を貫いた。息子の手が、確かに自分の体を貫いていた。
息子の手に込められた力は、冷徹で無慈悲だった。エリオスの瞳に浮かぶのは、かつての父親への愛情ではなく、ただ冷たい目的だけ。それがケルメルにははっきりと感じられた。その瞬間、ケルメルの身体に強い圧迫感が襲う。
「エリオス…!」
ケルメルが息子の名前を叫ぶ。
しかし、その声はエリオスには届かない。彼はただ無言で、冷ややかな瞳で父親を見つめていた。
エリオスの手が動くたび、まるで暗闇から何かが引き寄せられるかのように、ケルメルの体から力が吸い取られていく。彼の胸に鈍い痛みが走り、全身に冷たい感覚が広がった。あたかも血液が逆流し、体内の熱が急速に消え失せていくかのようだった。
その冷たい力は次第に、ケルメルの内側から肉体を引き剥がすように流れ出す。目の前に広がる薄暗い部屋の空気が重く感じられ、部屋の隅にある光までもが吸い取られていくように暗くなった。息子の手から漏れ出す力の流れは、生気を感じさせない冷徹なものだった。
その瞬間、ケルメルはふと、胸に重いものを感じる。力を失っていく自分の身体が、まるで空っぽになったかのように感じられた。
息子が自分を崩していく。
自分の力、命の源、そして僅かに残っていた“浄化の力”までもが、確実に引き裂かれていることを感じた。
「やめろ…!」
ケルメルは必死に叫んだが、その声すら届くことはなかった。彼の膝が崩れ落ち、床に倒れ込む。
その瞬間、息子の手が再び動く。ナイフの冷たい刃がケルメルの腹部に突き刺さる。痛みが全身を走り、彼の視界が歪む。
エリオスは何も言わず、ただ無表情でナイフを引き抜いた。血が滴り、床に静かに広がる。その刃先が引かれるたびに、ケルメルの意識が遠ざかっていく。
父親の命の象徴であった力が、息子の手のひらに吸い込まれるように消えていった。
ケルメルは息子の目を見つめ、目の前に広がる冷たい現実を直視することを決めた。その冷徹な瞳の奥には、もはや愛情も慈悲もない。ただ、力を奪い取る無慈悲な意志があった。
「……私が……間違っていたのか……」
血が止まらない。息子の手に握られた刃が、確実に父親を滅ぼしていく。痛みが頭に、そして体全体に広がり、ケルメルの意識がぼんやりと遠くなっていく。
もう、何もできない。
その思いが、最後の一息とともに消えていった。部屋は、ただ静寂と血の匂いと己の手の中に宿った“新しい力”を確かめるように握りしめる息子が残された。




