暗がりに響く足音
夕刻、ようやく岩がむき出しになった巌窟街の入口が見えてきた。列車は最後のトンネルを抜け、周囲をそびえる石灰岩の崖に囲まれた終着駅へと滑り込んだ。窓の外には、断崖の壁面に張り付くように建てられた家々がちらりと見える。陽が傾き、薄暗い空の下、ランタンの明かりが灯り始めていた。
汽車が止まると同時に、岩肌に反響する汽笛が街全体に響き渡り、旅が終わったことを告げた。
ヴァルとバッシュは、駅の雑踏の中を静かに歩き、混雑する人々や荷物の間を抜けていった。彼らにとって、荷物などほとんど意味をなさなかった。身軽な二人は、街に足を踏み入れたその瞬間から、次の目的地へと向かう準備が整っていた。
マナテラ巌窟街に着くと、最初に向かったのは宿屋の厩で待たせていたトロントとエゾフの元であった。
宿屋へと向かう途中、二人は一言も会話を交わさなかった。ヴァルは静かで、バッシュもまた言葉を探しながら歩いていた。彼は何を話せば良いのか、どう切り出せば良いのか分からなくなっていた。心の中に湧き上がるのは、動揺、疑惑、そして僅かな恐怖だった。それらが入り混じり、バッシュの思考を絡め取る。ヴァルが語った過去が、まるで暗い影のように彼を追い詰めるかのようだった。
足音が石畳に響く中で、バッシュは目の前のヴァルに何を問うべきか、そしてその答えが何を意味するのかを考えた。しかし、彼が想像する限りのどんな言葉も、今は恐ろしいほど重く感じられた。
厩には、こちらの事情など知る由もない小さな馬が、二人を見るなり嬉しそうに尻尾を振った。その姿にヴァルは少し顔をほころばせると、トロントの鼻筋に頬を寄せ、優しく「遅くなって悪かったね」と呟きながら頬擦りをした。トロントはその温もりに答えるように、鼻先でヴァルの手を軽く押し返した。
一方、足元で寝ていたエゾフは、二人の足音に気づいて、ちらりとこちらを見た。まるで長い時間を待っていたかのように、フンと鼻息を立てると、重い体を起こしながら一言。「ようやく戻ったか」とでも言いたげに、口をゆっくりと開いた。
「バッシュ、悪いけど、これで宿屋の亭主に追加の金を払ってきてくれないか。」
「あ、ああ……」
バッシュはヴァルから金の入った小袋を受け取ると、少し迷うように振り返りながら、足早に宿屋の入り口へ向かった。その足音が小さく響く中、再び厩の方へ目を向けると、ヴァルがトロントの寝床を掃除しているのが見えた。古い敷き藁を手際よく集め、新しい藁を丁寧に敷き直すその姿は、どこまでも穏やかで、人間を殺すような冷徹な印象とは程遠かった。
◇◆◇◆
「エリオス様!お待ちを……お荷物がまだ……。」
従僕の声が慌てて響くが、エリオス様はそれに耳を貸さず、怒りを押し隠すことなくドスドスと歩みを進めた。その足音は、周囲に威圧感を与え、道を開けるために人々が素早く脇に退いた。彼の怒りの発露に気づいた者たちは、恐れからか、誰もが無言で身を引いていった。
「そうだ。オレの前に、誰もが道を開けるべきだ。そうでなければならない。それなのに、あんな奴がこの街に……!」
エリオスは馬車に乗り込むと、まるで自分の怒りを表現するかのように乱暴に座った。
不愉快だ。
あの男女がこの街にいるだなんて、想像するだけで背筋がゾクゾクする。街兵を動かして、早急に追い出さなければならない。あんな疫病神、早くこの地から消し去るべきだ――!
彼がその思いに耽る中、馬車の窓をコツコツと叩く音が響き、怒りに満ちた気分が一瞬だけ中断された。
「……なんだ!?」
エリオスは馬車の窓を叩く音に驚き、怒りの目を向けた。
「エリオス様、申し訳ありません……エリオス様に折り入ってお話しがあるとかで……!」
従僕の震える声が、エリオスの耳に届いた。
「話だと? そんなものは後で……」
エリオスがそう言いかけたその時、どこからともなく、老年の男の柔らかな声が響いてきた。
「ああ、エリオス様。エリオス様。貴方に特別なお話があるのです……あの葬儀屋のことでございます」
「葬儀屋、だと……」
エリオスはその言葉に反応し、胸の中に不安が芽生えた。まるで誰かに自分の内面を覗かれているような不気味さを感じ、すぐに馬車の窓を開けた。
「貴方様のご興味を満たせる良いお話でございます」
外には濃い緑色の上質な服を着た老年の男が立っていた。その男の顔にどこか見覚えがあったが、エリオスはその記憶が掴めなかった。
不意にエリオスは不安を感じたが、葬儀屋と聞いては今のエリオスには老年の聞かないわけには行かなかった。
エリオスは老年の男に軽く視線を向け、しばらく黙っていた。その顔には年齢を重ねた証が刻まれていたが、どこか冷静で、今この瞬間の状況を楽しんでいるような表情を浮かべていた。やがて、エリオスは無言のまま頷き、馬車に乗る許可を与えた。
「……乗れ。」
男は礼儀正しく一礼し、ゆっくりと馬車の中に足を踏み入れる。ドアが閉まると共に馬車は静かに石畳の道を進んでいった。




