エピローグ・蒸気機関車
バッシュは目の前に広がる光景に、足を止めて言葉を失った。
鉄の塊が、煙を吐きながら大きくうねり、音を立てて進んでくる。その姿はまるで巨大な獣が走っているようで、空気すら引き裂くかのような圧倒的な存在感だった。
「こ、これが…ジョーキキカンシャ…?」
彼の目は完全にその巨大な機械に釘付けになっていた。金属の車輪がゴトゴトと音を立て、煙突から勢いよく白い煙が空に吸い込まれていく。馬車のように引かれるものではなく、何かが内から力を引き出して動いているような、その不思議な動力にバッシュの頭はしばらくついていけなかった。
「驚いたかい?」
横で声がして振り返ると、アーク司祭が満足げに微笑んでいた。
「これがあれば、君たちもマナテラ巌窟街に戻るのに苦労はしないだろう」と言って、司祭は二枚のチケットをバッシュとヴァルに差し出した。それは見慣れない紙の札で、文字と数字が印刷されている。
「本当に…これを?」
「そうだ。これが蒸気機関車の乗車券だよ。おかげで歩き通しで疲れることもないし、安全に戻れるだろう?」
バッシュはしばらくそのチケットを見つめていたが、やがてその重みを感じ取るように、深々と司祭に頭を下げた。
「ありがとう、助かるよ。」
ヴァルも静かにチケットを受け取ると、蒸気機関車を見上げたまま低く呟いた。
「こんな代物を使う日が来るとはな…。」
二人の背後で、機関車はますます勢いよく煙を吐き出しながら、その鉄の巨体を威圧的に震わせていた。
「こんな…こんなものが…動くなんて!」
その驚きと興奮が彼の声ににじみ出る。普段の彼なら冷静な顔を保ち続けるはずだが、この瞬間ばかりは目の前の機械に心を奪われていた。
「バッシュくん、どうですか?すごいでしょう?」
見送りに来ていたポトロが隣で笑いながらその様子を見ていたが、バッシュはその言葉にも答えず、ただ無言で機関車を見つめ続けていた。鉄の塊が巨大で、そしてまるで生き物のように迫力を放つその姿は、彼の想像を超えていた。
その鋼の怪物が音を立てて進んでいくたびに、バッシュの胸の奥で何かが高鳴っていくような気がした。これが自分たちの進むべき道を切り開く力だということを、ようやく実感し始めた瞬間だった。
蒸気機関車の前で、バッシュは大きな息をつきながら身を乗り出して、アーク、ミレーユ、そしてポトロに向かって手を振った。
「じゃあな、お前ら!最後の別れだ!!」
アークは肩をすくめながら、呆れ顔で言った。
「バッシュくん、どうしてそんなに大げさに言うんだ?今生の別れってわけでもないだろう?」
「いやいや、でもよ、鉄道ってのはどんなもんか分かんねぇだろ?もし途中で爆発でもしたら…」
「爆発って…お前、どうしてそんな心配ばかりしてるんだよ。」
ミレーユがあきれたように言うが、バッシュはそんな言葉も気にせず、さらに大げさに両手を広げた。
「だからな、もし急に爆発して、最期に言いたいことがあったら今言っとけって!な、言っとけよ!」
ポトロが顔を赤らめて、それを制するように声を上げた。
「バッシュくん!バカなこと言わないでください!恥ずかしいですよ!」
「でも、いつだって何があるかわからねぇんだぜ?」
バッシュはしばらく空を見上げてから、顔をゆがめてにやりと笑った。
「それに…何かあったら俺がちゃんとみんなのこと守ってやるから!」
ミレーユがにっこりと微笑んだ。
「守るって、さすがにお前に頼んでないけどね。」
その言葉を聞いて、バッシュは大きく肩をすくめた。
「まぁ、そんなこと言っても、俺だってもはや立派な護衛だぞ?」
ヴァルがそっと横に立ち、無言でバッシュを見守っていた。その静かな姿に、バッシュは改めて振り返る。
「…ヴァル、お前も早く乗れよ」
ヴァルは淡々と頷き、「ああ」とだけ返すと、バッシュはその一言に安心したようにまたアークたちに向き直る。
「まあ、こういうわけだから、またな!あんまり寂しくなるなよ!」
バッシュが最後に手を大きく振ると、アークたちは呆れた顔でそれに応じた。ポトロだけは不安そうに言った。
「本当に爆発したりして…」
バッシュは満足げに手を振りながら、そのまま蒸気機関車に乗り込む。彼の後ろでヴァルが静かに微笑み、もう一度手を振った。
「またな。」
そして、蒸気機関車が動き出すと、バッシュはその振動を感じながら、今までのやり取りを思い返しては口元を緩ませていた。
バッシュは、座席に身を沈めるようにして、ふかふかのクッションに腰を下ろした。初めての蒸気機関車の車内は、予想以上に快適で、木の香りと温かい空気が混ざり合って心地よい。座席に深く腰をかけると、まるで小さな空間に包み込まれたような安心感が広がる。
「おお、これが機関車の席か…まるでお城の椅子みたいだな。」
バッシュは嬉しそうに腕を伸ばし、背もたれに寄りかかる。窓の外では、他の乗客が乗り込んだり、最後の準備が進んでいた。ヴァルも隣に静かに座り、目を閉じている。その静けさが、バッシュに少し不安を感じさせた。
しばらくして、車内に軽い振動が伝わると、窓の外にある鉄道のレールがうっすらと動き始めた。機関車がギアを噛み合わせ、動力を伝えたのだ。だんだんと加速していくのを感じ、バッシュは軽く肩を揺らしながらその感覚に身を任せた。
「おお、すげぇ…これが動き始めるってやつか…!」
その瞬間、車両がカタカタと音を立て、微かに揺れながら、確実に前進しているのがわかった。最初は穏やかな加速だったが、次第に力強さを増していき、窓の外の景色がゆっくりと後ろへと流れ始めた。
後ろに飛んでいく景色に夢中になっていたバッシュは、車両の揺れを楽しみながら、目の前に広がる風景をぼんやりと眺めていた。遠くの山々が次々と過ぎ去り、広がる大地が風に揺れる。まるで世界が自分を包み込んでいるかのような気分になり、思わず顔をほころばせていた。
蒸気機関車のリズミカルな振動が車内を満たし、車輪が軌道を叩く音が鼓動のように響く。窓越しには広がる大地が流れ、煙突から立ち昇る白い煙が青空に溶け込んでいく。鉄の巨体は力強く前へ進み、二人を遠くへと運んでいくようだった。
バッシュは窓の外に夢中だった。目を輝かせ、景色が目まぐるしく変わるたびに小さく歓声を上げている。その姿を横目に、ヴァルは視線を窓に向けたまま微動だにしなかった。
窓ガラスに映る自分の顔に、彼はわずかに眉をひそめる。その背中には、言葉にならない重圧がのしかかっていた。走る列車の音は心の中でくすぶる迷いを打ち消すどころか、その存在をさらに際立たせていくように感じられる。
伝えなければならない──そう分かっている。
けれど、その一歩を踏み出すには、あまりにも多くの覚悟を要するのだと、ヴァルは痛いほど理解していた。
バッシュが窓に額を押し付けながら景色を追う後ろ姿を、ヴァルはそっと見つめた。彼の無邪気な横顔が、なぜか酷く眩しく感じられる。その純粋さを自分の言葉で汚してしまうのではないかという恐怖が、ヴァルの胸を締め付ける。
蒸気機関車は、リズムを崩すことなく走り続けていた。青空に溶ける煙、遠ざかる風景、そして聞き慣れない汽笛の音が響く中、二人を乗せた列車は鉄路の先へと消えていく。
揺れる車内には、誰にも聞こえない、言葉にならない決意だけが残されていた。




