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番人の葬儀屋  作者: あじのこ
第4章 波間の約束
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鎮魂

バッシュは海と街を見下ろせる教会の屋根にいた。ここが一番静かだった。


教会内部では、老師の死と、突如狂気に駆られた衛兵による上役司祭モルディナの斬殺が引き起こした混乱が続いていた。


アーク司祭とミレーユ、そして衛兵に捕らえられた後に解放されたポトロは、それぞれの持ち場に戻り、混乱を収めようと必死に努めていた。


倉庫では男たちに襲われ、命からがら逃げてきたと思えば、空飛ぶ船に乗って、空を飛んだ。そしてその後は。


バッシュは、まだ海の上で燃え続ける塔を見ていた。塔は炎に呑み込まれ、崩れ落ちていった。内部の様子は、絶望的な状況を如実に物語っていた。


彼は高ぶる感情を押さえ込むように大きく欠伸をした。ほとんど眠っていない。それでも、今は眠れる気がしなかった。大人たちの怒号と、それに続く血の匂いが、彼の神経を尖らせていた。


バッシュは海を見つめながら、ゆっくりと懐から笛を取り出した。ヴァルから受け取ったそれは、フクロウの装飾が施されていた。暗い空を飛ぶフクロウのように、どこか神秘的で、静かな力を感じさせる。

指先がその滑らかな表面に触れると、ほんの少しの重みがあった。先日受け取ったばかりの報酬。それが今、こんな状況の中で役立つとは思ってもみなかった。


バッシュは笛を唇に当て、少しだけ息を吹き込んだ。最初の音は、周囲の静けさに溶け込むように軽やかだったが、次第に音が広がり、微かに震えるような音色を放った。


その音が、バッシュの心を少しだけ落ち着けた。幼い頃、母親がよく言っていた言葉が思い出される。


『辛い時は音楽を奏でて、歌って。踊るのよ。それで心を落ち着けるんだよ』


母親の優しい声、そしてその手で笛を吹く姿が、今でも鮮明に浮かぶ。

そのときの風景は、まるで時間が止まったかのように鮮明だった。風が母の髪を揺らし、笛の音が彼女の穏やかな顔に似合って、空気の中に優しく響いていた。


今、バッシュが吹いている笛は、あの頃と同じ音を出すことはできない。ただし、彼の心には、母親の温もりを感じるような気がした。笛の音が広がるたびに、まるで母が側にいるかのように、少しだけ胸の奥が温かくなった。


「母さん…」


バッシュは、ふとそう呟きながら、もう一度、笛を吹き続けた。音は次第に深みを増し、彼の中で静けさと安らぎを呼び覚ました。


バッシュはほんの少しの間、目を閉じた。風が静かに吹く音に混じって、ルカとヴァルナのことを思い出す。

あの二人との出会いは短かったが、決して忘れられない。


バッシュは静かに笛を口に運び、軽く息を吹き込んだ。その音は少し震えながらも、まるで目の前にいない二人の魂を慰めるように、ふわりと響き渡った。

音色は、どこか哀しみを帯び、しかし温かさを感じさせる不思議な調和を持っていた。彼が吹く笛の音が、何か大切なものを守るために力を貸してくれているような気がした。


バッシュは笛を吹きながら、海の音と風の匂いを感じ取っていた。音はだんだんと静けさをもたらし、心の中のざわめきを消し去るようだった。その時、ふと気配を感じ、視線を上げると…。


「おっと…!」


屋根の端から、突然、アーク司祭が現れた。まるで風を切るように、彼は足元をすばやく踏みしめ、身軽に屋根をよじ登っていた。その動きは無駄がなく、さながら熟練の戦士のような鋭さを感じさせる。


「アークか?」


バッシュは驚きの表情を浮かべながらも、笛を口から離し、少し警戒しながら見守る。


アーク司祭は、屋根の縁に足をかけ、片手でバランスを取ると、次の瞬間には軽やかに屋根の上に立った。その姿勢の美しさ、力強さには、どこか凛とした気配が漂っている。


「はぁ…見かけによらず、運動神経がいいんですねぇ…」


バッシュは呆れ半分、少し感心したように言う。


アーク司祭はにやりと笑い、手を広げて周囲を見渡す。風を感じ、穏やかな海の景色に目を向けると、まるでその場の空気を自分のものにするような佇まいだった。


「ふん、こう見えても修道院時代は、軽業の使い手だったからね。」


アーク司祭は肩をすくめて、軽く冗談を交えたような口調で言ったが、その目は真剣そのものだった。


「ただ…少し昔みたいに屋根を登りたくなっだだけさ」


バッシュはその言葉に、少し意外な気がした。しかし、アーク司祭のその姿勢や眼差しには、決して無駄な動きがないことが分かる。緊張感のある状況でも、こうして軽やかに空気を変えることができるのは、彼の持っている能力の一部なのだろう。


「…無駄な動きがない、というのは分かるが、アンタこんなところにいていいのか?」


バッシュは少し呆れつつも、アーク司祭の頼りがいのある一面を感じていた。

アーク司祭は微笑みながら、風になびく髪を整え、バッシュに向かって言った。


「私は部下に仕事を任せるのも得意なのだよ」


その言葉に、バッシュは呆れながら笛を再び口に当てた。アーク司祭の登場によって、すっかり変わった空気の中で、再び静けさが広がっていった。


しばらく笛を吹いていると次第に隣りでアーク司祭が肩を振るわせているのがわかった。

バッシュはなるべく見ないように努めた。大人の男が泣いているのをのぞくように見るのは無粋だと思ったからだ。


「バッシュくん…君の笛の音は…本当に琴線に触れてくるよ」


こうして屋根に登ると、大人になった自分が、どこか幼い自分に戻ったような気がした。


アークはふと、子供の頃のことを思い出した。イタズラをして、見つかって怒られるのが怖くて、夜まで隠れていたあの時。教会の静けさの中で、ひたすらに時間が過ぎるのを待っていた。だが、結局見つかってしまった。老師が静かに近づいてきて、優しく手を引っ張ってくれた。その手の温もりと、無言の安心感は今でも忘れられない。


そして、家が恋しくなった夜。気分を紛らわせるために、教会の屋根に登って星空を見上げた。何も言わずに隣に座っていたのは、モルディナだった。言葉はなくても、ただ静かに朝まで共に星を眺めてくれた。その静かな時間が、アークにとっては何よりの慰めだった。


そのことを思い出した瞬間、アークの目からこぼれる涙を止めることができなかった。心の中で大切にしてきた思い出が、今の自分にどれほど深い影響を与えているのかを実感していた。


かつて頼りにしていた人たちはもういない。その孤独に、今にも押しつぶされそうだ。


アークの涙は、いつの間にか止まらなくなっていた。心の奥深くにしまっていた過去が一気に押し寄せ、どこか遠くから聞こえてくるはずの優しい手のひらのぬくもりを感じた。


その時、ふと、耳にした笛の音。最初は微かな音だったが、次第にそのメロディーが空気を震わせるように響いてきた。

バッシュの笛だ。過去の優しさを思い出すような、静かで穏やかな音色。それはまるで、自分の心の奥底で響いているようだった。


アークは涙を拭い、無意識にその音に耳を傾ける。笛の音が、まるで冷えた心を包み込むように静かに広がり、心の奥の痛みを少しずつ和らげていくようだった。誰かに癒されているような、そんな不思議な感覚に包まれて、彼はふと深く息をついた。


朝の光が教会の屋根に降り注ぎ、柔らかな温もりをアークの背中に感じさせた。夜の冷たさはすでに遠く、空は澄み渡り、日差しが街の上に広がり始めている。どこか、空気そのものが新しい一日の始まりを告げるように、清々しく息を吹き込む。


海の向こうには、まだ幾分の霧が漂っているが、それもすぐに晴れるだろう。静かな波が岸に打ち寄せ、その音は穏やかで、まるで心の中の乱れをも洗い流してくれるかのようだ。遠くの街の喧騒も少しずつ大きくなり、朝の活動が始まりを告げている。


アークは目を閉じ、ふと深呼吸をする。その胸に広がるのは、過去に縛られた悲しみではなく、どこか柔らかく、穏やかな空気だった。これから進む道に、少しずつ希望の兆しを感じる。


彼の中に積み重なった過去の苦しみが、今、静かに消えていくような気がした。日の光を浴びながら、あの夜の闇が少しずつ溶けていく。新しい一日が始まったのだ。


そして、笛の音が響いた。それは、バッシュが吹く笛の音だった。穏やかで、どこか懐かしさを感じさせるその音色は、アークの心に深く響き、彼の中で何かが静かに整い始めるのを感じさせた。

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