疑惑
モルディナの開かれた瞼をそっと閉じると、その顔はまるで安らかな眠りに落ちたかのように見えた。
アーク司祭は神妙な面持ちで腕を組み、じっとその死に顔を見つめた。
師兄が持っていた薬。
そして、それを渡した少年…。
自分が知らぬところで、誰かの手によって操られているような、得体のしれない不安感が胸に広がった。
ふっと視線を向けると、ヴァルが切り落とされた衛兵の腕のそばに佇んでいた。無表情ではあったが、その瞳は恐ろしいほどに鋭く、衛兵の身体をじっと見つめていた。まるで、何もかもを見透かすような凝視に、周囲の空気が一瞬で凍りつくような気がした。
「おい、ヴァル、大丈夫か…?」
バッシュが心配そうに駆け寄ると、ヴァルはようやく意識を現実に戻したかのように、固まっていた表情がわずかに和らいだ。しかし、その瞳には依然として冷徹な輝きが残っていた。
「おまえ、壁にぶつかってなかったか?」
「ああ…問題ない。大丈夫だ」
バッシュの心配をよそに、ヴァルは無表情でアーク司祭と目が合った。その瞳の奥には、言葉にできない感情が交錯しているようだった。まるで、何かを探るような、互いに計るような視線を交わした。
「…話がある」
ヴァルはアーク司祭に声を掛けた。その冷徹な目の奥に何かを決意したような光が宿っている。アーク司祭は一瞬ためらった後、深い息をつき、口を開いた。
「奇遇ですね。私もお話ししたいと思っていました」
その言葉には、少しの苦味と重さが含まれているようだった。アーク司祭は一歩踏み出し、ヴァルとの距離を縮める。
「あなたと情報交換できるような親密な間柄になれるとは光栄ですね」
アーク司祭は軽口を叩いたが、ヴァルは無視するように黙っていた。それに気にも止めずにアーク司祭は続けた。
「モルディナが持っていた液体…さる階級の方々の間で噂になっていると聞きました」
アーク司祭は腕を組んで遠くを見つめた。
「なんでもその液体を口にすると永遠の命を得られるとか…まぁ、噂話だと笑っていたのですが、こんな結末になるとは」
アーク司祭はその言葉を口にした後、少しの間黙り込んだ。その目には悲しみがが宿っていた。ヴァルはじっと彼を見据え、その言葉に対する反応を遅らせることなく吐き出した。
「永遠の命…か」
ヴァルの冷徹な口調には、明確な否定が込められていた。 ヴァルは眉をひそめ、何かを感じ取ったかのように声を低くした。
「私は、以前この衛兵と同じ状態になった者と戦ったことがある」
「…は?」
ヴァルの言葉に、アーク司祭は一瞬言葉を失った。無表情なヴァルが過去に戦った相手、そしてその内容が一体どんなものだったのか、彼の表情には全く窺い知れなかった。
「とても…昔の話だ。それは今はどうでもいい。」
ヴァルは手を軽く振って話題を逸らした。
その冷徹な瞳には、まるで過去を振り返ることを嫌っているかのような気配が漂っていた。
「とにかく、この状態になった者はもう元には戻らない。無論、永遠の命は宿らない。絶対にな」
彼の声は、無情に響いた。
アーク司祭は無意識に一歩後退り、言葉を飲み込む。これまで見てきたものとは違う、暗い深さを感じた。
「ヴァル、君は一体…」
アーク司祭は問いかけるも、ヴァルの鋭い目に言葉を飲み込むような感覚を覚えた。
白い石壁に覆われた部屋の中で、ヴァルの黒いマントが一層際立っていた。光の届かぬその場所で、マントの黒はまるで深い闇そのものを引き寄せるかのように、辺りの清浄さを侵食していた。石壁の冷たさがその布に反射し、どこか陰鬱な光を放ちながら、ヴァルが静かに立つ背後で不気味に揺れている。
部屋の中は静まり返っていたが、その静けさを破るかのように、マントの裾が僅かに動いた。風があるわけでもないのに、まるでヴァルの内に秘めた力が、空間そのものを揺るがしているかのような錯覚を覚えた。
「詮索は無用だ。前にも言ったが、私は教団が嫌いだ。…心底な」
ヴァルは冷徹な瞳でアークを睨みつけ、心の奥底から湧き上がる嫌悪感を隠さなかった。その視線の鋭さに、アーク司祭は一瞬、息を呑む。
その時、ミレーユが無言のまま二人の間に割って入った。
彼は言葉を発さず、ただじっとヴァルを睨みつけた。その沈黙は、何とも言えない圧力を生み、周囲の空気が一瞬にして張り詰める。
「…それに、その少年とやらも、おそらく私は知っている。」
「なんだって!?」
アーク司祭の言葉に、ヴァルは反応する。
「そいつは、いつも人の弱みに漬け込み、まるで安寧を齎すかのように誑かす。…気をつけることだ。」
ヴァルは、衛兵から奪い取った剣を乱暴に地面に投げ捨てた。その動きは普段の彼らしくない、まるで感情が崩れたかのように見えた。バッシュはその瞬間、胸の中で何かがざわつくのを感じた。
ヴァルらしくない行動を目の当たりにし、不安が胸を締め付ける。だが、ヴァルは一度も振り返ることなく、冷静な声で言った。
「また…奴を殺さなくてはならない。次こそは。必ず」
その言葉は、バッシュをさらに困惑させるものだった。
前に一度、ヴァルは人を殺したと言っていた。エルフ達の森のトンネルを抜ける最中、ヴァルはケガレに細工した人間を殺したと語っていたのだ。
それならば、あの衛兵に取り憑いたのはケガレだったのだろうか…?
あの衛兵だけが死んでそれで終わりとはとても思えなかった。
バッシュの胸に不安が広がった。心臓の鼓動がうるさく響き、息が詰まりそうな感覚に襲われる。ヴァルの冷徹さ、その目に宿る不気味なまでの鋭さ。それらすべてがバッシュの中で繋がり、不安として形を成していた。
(永遠なんて、あるわけないじゃないか…)
母も病で死んだ。あの森の梟も。森のエルフたちも。そしておそらくはルカとヴァルナも。
命ある者は必ず死ぬ…それが生き物の法則であるはずだ。しかし、バッシュの心の中では何かが引っかかっていた。
もし本当に「永遠の命」などというものが存在するのだとしたら…ヴァルがそれを知っているとしたら…?
『アレはもはや人間ではない』
ルカとヴァルナの言葉が、頭の中で反響する。それは、ヴァルの過去に触れるたびに浮かぶ言葉だ。彼の行動、言動がどこか冷徹で、感情が希薄なように見えるたび、バッシュはその言葉を思い出していた。そして今、目の前にいるヴァルがそれに近い何かを感じさせている。
(あいつと、ヴァルとこの先共に旅を続けるのか?)
バッシュは自問した。けれど答えが出ることはなかった。目の前で淡々と話すヴァルが、少しでも感情を見せた時、バッシュは恐ろしいほどの違和感を覚えた。彼はヴァルの瞳に、ただの冷徹さを超えた何かを感じ取っていた。それが人間のものではないような、不自然な、異質なものに思えた。
アーク司祭とのやりとりを見て、バッシュは強い直感を抱く。それはただの恐れでも、嫌悪でもなかった。もっと深いところで、彼の中に眠っていた疑念が目を覚ます感覚だった。
(ヴァル…お前は一体、何者なんだ?)
バッシュはその問いを心の中で繰り返す。答えを探すことが怖かった。答えを知ることで、彼が信じてきたものが崩れ落ちることが怖かった。だが、同時に、その答えが必要だと感じていた。
ヴァルの冷たい瞳が、バッシュに何も告げることなく、ただ静かに見つめ返している。それだけで、バッシュの中で不安と不信感が膨らんでいくのだった。




