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番人の葬儀屋  作者: あじのこ
第4章 波間の約束
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鏡の中に映し出されたのは

3-26


体のあちこちがバラバラになるような感覚。左右の腕は互いに引き合い、足は頭の方へ折れ曲がったのではないかと思えた。


やがて白い、柔らかな光に包まれバッシュは恐る恐る瞼を開けた。


バッシュは飛び上がり、自分の体のそこかしこを触ってくっついていることを確認した。足も腕も取れていないことにほっとしながらバッシュは周囲を探るようにキョロキョロと探った。


「…ここはいつも静かですね。」


アーク司祭は独り言のように呟いた。その声は、部屋の静寂に溶け込み、まるで自分だけの世界にいるかのようだった。隣にバッシュがいることも忘れているかのような様子に、バッシュは思わず息を呑んだ。


しばらくの間、何も言えずにいた。彼の言葉にどう返すべきかも分からず、ただその静けさに圧倒されていた。


◇◆◇◆


夜明け前の最も暗い時間、その場所は静寂に包まれていた。街と海を見下ろす丘の上に建つその建物は、まるで永遠の祈りを捧げ続ける灯台のようにそびえていた。


私室の窓は一枚の大きなガラスで、視界の外縁を取り囲む細工の施された木枠が、海風を遮っている。外にはかすかに波音が響き、遠くでは一つの塔が炎を纏いながら燃え上がる様が見えた。炎の明滅が暗い海面に揺れる光の帯を描き、赤と黒のコントラストが不気味なほど美しい。


室内は質素だがどこか品のある佇まいだった。白い石壁には年季が入っており、所々に入った細かなひびが、この教会が長い歴史を持つことを物語っている。天井から吊るされた鉄製の燭台には蝋燭が並び、その残り火が最後の命を燃やしていた。オレンジ色の弱い光が、部屋の中央に置かれた木製の机と椅子をかすかに照らしている。


机の上には古びた羊皮紙の書物が一冊と、煤けたランプが置かれていた。ランプの硝子には微細な亀裂があり、その隙間から漏れる光が揺れる影を作り出している。壁際にはひざまずくための祈祷台があり、そこには一つの聖像が備えられていた。木彫りの聖母像は顔を伏せ、穏やかな表情の中に憂いを帯びている。


窓際に立てば、燃える塔の光が室内に影を引き入れた。遠くの海と交わる水平線がかすかに青みを帯び始めている。太陽が昇る直前の冷えた空気が、静けさとともに部屋全体を包んでいた。


男は無感動に、テーブルの上に置かれたグラスを手に取った。


その中には、どこか異様な光を宿す深い琥珀色の液体が揺らめいていた。光を反射するたびに、液体の表面がわずかに螺旋を描くように見えるの。かすかに漂う香りは甘やかで、だがどこか人間の胸の奥にある欲望をかすめるような鋭さがあった。


男は一瞬、静かにグラスを見つめた。

まるで何かを計るように。そして迷いのない手つきでそれを銀製のトレイに乗せた。


「老師さま、お薬の時間ですよ」


男は呟くようにそういうとグラスをベッド側のテーブルに置くと、粗末な椅子に座り再び手を組んで沈黙した。その表情には、満足感も後悔もない。ただ、どこか冷えた決意だけが残っているようだった。


薄暗い部屋の片隅、重々しい静寂の中で、老人はベッドに横たわっていた。痩せこけた体は、薄いシーツの下で骨の輪郭を際立たせており、呼吸をするたびに胸がかすかに上下する様子が辛うじて生気を示している。その肌は黄ばんだロウのように乾き、無数の深い皺が刻まれていたが、瞼の下で揺れる瞳だけは未だ鋭い光を宿していた。


目の前の天井をじっと見つめるその瞳には、何かを伝えたい、あるいは問いかけたいという強い意志が見えた。だが、唇はかすかに震えるだけで、声にはならない。喉奥に詰まった空気が、か細い音を漏らすにとどまる。その様子は、もはや言葉を発する力が体から失われていることを物語っていた。


彼の表情は不思議なほど穏やかだった。


死を目前にしながらも恐怖や絶望の色はなく、むしろ静かな受容の影がその顔を覆っていた。それでも、瞳の奥には確かな意思が宿り、彼がまだ正気を保っていることを示している。


「老師様、これを…飲んでください。」


男の声は一見穏やかだった。しかし、その裏に隠された焦燥と執着は隠しきれない。琥珀色の液体を湛えたグラスを、男は慎重に差し出した。


「これを飲まなくては、いままで私がしてきたこと…神を冒涜し、背き続けてきた数多の行為が、すべて無意味なものになってしまうのです。」


その声にはかすかな震えがあった。男は老人の静かな瞳を見つめながら言葉を続けた。


「私は、この瞬間のためにあらゆるものを捨ててきた。神に見放され、祈りをも捨て、それでもなおこの妙薬を完成させるために生きてきたのです。」


だが、老人の瞳に映るものは変わらない。男の必死の訴えを無言で拒絶するかのように、瞳の奥には冷静な光が揺らいでいるだけだった。その視線が、男の胸を焦がした。


「老師様…頼むから…」


男の声が低くかすれる。しかし、老人は口を閉ざしたまま、意志の強さを瞳に託し続けた。それが、男の中の何かを突き崩した。


「……飲め!」


男の声が一変し、静寂を裂いた。これまでの穏やかさは消え失せ、その顔には鬼気迫る表情が浮かんでいた。グラスを持つ手が荒々しく震え、液体がわずかに揺れる。


「お前がこれを拒むことで、私が築き上げてきたものが全て崩れるんだぞ!私の犠牲を、私の苦悩を無駄にする気か!」


老人の細い体が、男の声に応えるようにわずかに震えた。それでも、唇はかたく閉ざされたままだった。動けないその身に込められた拒絶の意志は、鉄の壁のように頑として崩れない。


男はグラスを握る手をさらに強く締め、喉の奥から低い唸り声を漏らした。燃えるような視線を老人に投げかけながらも、次の一手を考えるかのように動きを止めた。そして、ただ静かに息を整えながら、再び老人を見下ろした。


アーク司祭が扉を静かに押し開け、その姿を現した。長い間誰も来ることのなかった部屋に響くその足音は、まるで時間を切り裂くかのように重く響いた。


「モルディナ師兄…いや、モルディナ。」


アーク司祭の声は低く、しかしどこか冷静さを欠いていた。その名を呼ぶ声には、長年の関係を裏切られたかのような切なさと、深い憂いが滲んでいた。


モルディナは、まるでその声が届かないかのようにグラスを握ったまま動こうとしなかった。


「やめるんだ。」


その言葉は、すでに決意が込められたものだった。アーク司祭は、モルディナの目をじっと見つめながら歩み寄り、その前に立つと、手を伸ばし、彼の手からグラスを引き寄せようとした。


モルディナの目が一瞬、司祭を捉えた。その瞳には、拒絶と冷徹な決意が宿っている。それでも、アーク司祭はその目を外さずに言葉を続けた。


「これ以上、祈りの場を荒らすようなことはやめろ。お前が何をしようと、もう…受け入れるべきだ」


アーク司祭の声には、止められない絶望とともに、かつての兄弟子を救おうとする必死の思いが滲んでいた。


「アークか…おまえは、どこまでもしつこいやつだ」

「しつこい?私がしつこいなら、モルディナ、きみはまるで…」


アークは手を広げて、まるで大げさに物事を説明するかのように続けた。


「まるで、干からびた井戸の水みたいだな。」


アークはにやりと笑い、モルディナの冷徹な反応を楽しむかのように言った。


「いつだって変わらず、同じところをぐるぐる回って、永遠に抜け出さない。」


モルディナは、その言葉に短く息を吐く。目を細めてアークを睨むが、すぐに無言で視線を外した。アークはその反応を気にせず、楽しげに続けた。


「だからこそ、しつこいと言われても、俺は諦めないんだよ、モルディナ。」

「貴様になにが分かる!」


モルディナの激昂に部屋の空気が震えた。

アーク司祭の後ろに隠れていたバッシュがギョッとすくみ上がった。


「…私は貴族の私生児として生まれ、この教会の中で育てられた。私が誰の子であろうと、何を求められようとも、外の世界を知らぬまま過ごした。教義と規律、それだけが私を支える全てだった。」


モルディナは、言葉を紡ぐたびにその目に遠い記憶が宿り、静かにその口を閉じる。


「私には他に選択肢などなかった。この壁の中で、与えられた役割を果たし、求められるだけの人間でいればそれで全てだったのだ。」


彼の声は、どこか空虚で、しかし深く静かに響いた。過去を振り返ることにためらいがないようにも見えるが、その眼差しには何か閉ざされたものがあった。


「でも、老師様だけは違った。あの方だけが、私にとっての唯一の救いだった。」


彼はゆっくりと目を伏せる。


「他の誰もが私をただの器、あるいは道具として見ていた中で、あの方は…私を、私として見てくれた。理解し、支えてくれる唯一の存在だった。」


モルディナの声はその言葉の中で深い感情を秘めている。まるで、その思いが彼の内面でどれほどの時間を経て積み重なってきたかを示しているかのように。


アークの目が、モルディナの手に持たれたグラスに吸い寄せられる。その透明な液体は、ただの酒や薬ではないことを直感的に感じ取った。ふと、胸が重くなるような感覚に襲われ、思わず言葉が漏れる。


「まさか…」


その声はほとんど囁きのようだったが、モルディナの目に留まるには十分な力があった。アークは息を呑んだ。目の前でその液体が、単なる薬や酒以上の意味を持つことを理解してしまったのだ。明らかに普通の薬や酒とは違い、何かもっと深く、暗い意図を孕んでいるような気がした。


「モルディナ…それはなんだ?なにをしようと…」


その瞬間、アークの中で何かが弾けたような感覚が走った。モルディナの持つグラス、それが何であるのか、すでに察している自分がいた。そして、その先に待つであろう事態に身震いを覚える。


「これから先も、どんな時も、変わらずに。私は私の“永遠”を守るのだ」


モルディナは小さく息を吐き、少しの間、黙っていた。その目は、過去を見つめることなく、ただ前を向こうとしているかのようだった。


「…違う、モルディナ。老師様は、決してそんなことを望んでおられない。老師様が望んでいるのは、貴方が自分の力で巣立っていくことだ。」


アーク司祭が動こうとする瞬間に、衛兵たちがすぐさまその動きを察知し、間髪入れずに駆け寄ってきた。アークは一歩も二歩も前に踏み出そうとしたが、すぐにその動きを制止された。


「お下がりください、アーク様!」


無駄に抵抗しようとする隙もなく、衛兵の一人がアークの肩を強く掴み、その場で押しとどめた。アークが振り向こうとする間もなく、もう一人の衛兵が急いで駆け寄り、アークの腕を強く掴んで押さえ込んだ。


その瞬間、バッシュもまた、思わず動こうとしたが、すぐに衛兵の手が背後から伸びてきて、無情に地面に押しつけられた。


「お前も動くな!」


バッシュは反射的に手を伸ばすが、力で押さえ込まれる。腕を押さえつけられ、顔を床に近づけられた。体は硬直し、動くことができない。痛みが走ると同時に、心の中で何かが叫んでいた。


アークは言葉を発しようとしたが、衛兵たちの手のひらがその口を封じたかのように、彼の体を無理やり静止させた。


「またあとでゆっくりと話そうではないか…アーク。今の私にはやるべきことがあるのでな。」


モルディナは冷たく言い放つと、再びそのグラスに手を伸ばす。


「や、やめろ…!そんなことをしたところで老師様は…!」


アークは震える声で叫んだ。必死にその手を引こうとするが、衛兵の手が力強く彼を引き止めた。


「お前が何を言おうと、今は黙ってろ。」


一人の衛兵がアークの肩を力任せに押さえつけ、そのまま振り向かせずに体を押し込む。アークは暴れるように動こうとしたが、その腕を無理矢理引き寄せられて、身動きが取れなくなった。


「やめろ…!頼む、私の話を聞け!老師様はそんなことを望んでいないんだ!」


アークは必死で叫んだが、もう一人の衛兵がその口を封じるかのように強く腕を引っ張り、再び地面に押さえつけた。その抵抗すらも、無力だった。


バッシュは状況に完全に混乱していた。目の前で繰り広げられる2人のやり取りに、どう反応すべきかがわからない。だが、どこかでそれが間違っていると感じ取ると、直感的に行動に移さずにはいられなかった。


「おい、やめろ…!」


バッシュは必死に抵抗を始めた。衛兵の力が増していく中、腕を引き離すことはできずとも、もがくことで抵抗の意志を示した。だがそのもがきが思わぬ結果を生んだ。

バッシュが手を振り回すたびに、持っていた荷物が散乱し、物が地面に落ちていく。


ゴロン…


その中でひときわ目立つ音がした。地面に転がったのは、銀色に輝く小さな手鏡だ。


手鏡は不意に転がり、床を軽く弾んで止まった。その薄く光る面には、ほんの一瞬だけだが、暗闇の中に浮かぶ光の点が映り込んだ。


手鏡が地面に転がると、その表面が微かに震えた。次の瞬間、その静寂を破るように、鏡の中から奇怪な光がほとばしった。


ガッ…!!


一瞬で空間が裂けるような音が響き、手鏡の中から色とりどりの火花が舞い上がる。赤、青、金、緑…無数の輝く粒子が宙を踊りながら、激しく空間を彩った。


それらの火花は音を立てて弾け、魔法の原子が溢れ出す。それはまるで無限に広がる星々が一つになったかのように、眩い閃光となって部屋全体を包み込んだ。


「うっ…!」


バッシュはその場にいる全員が視界を奪われるほどの光に目を細めた。手鏡から放たれた魔力が、まるで生き物のように漂い、爆発的に部屋中を駆け巡った。空気は震え、重く息を飲むような静寂の中から、最後に一際強烈な閃光が走った。


その瞬間、暗闇の中から一筋の影が浮かび上がる。その影が徐々に形を成し、現れたのは…ヴァルだった。


ヴァルが現れると、まるで全ての光が彼に集まったかのように、周囲の空気が一変した。彼の背後からは爆発的な光が続き、まるで神々の力が注がれたかのように煌びやかに輝いていた。黒色のマントを翻すと魔法の残りが火花のように揺れ、氷のような冷徹な眼差しが部屋を見渡す。


「…バッシュ、そこにいたか」


ヴァルの中性的な声が、そのまま部屋の空気を凍らせるように響き渡る。

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