ルカとヴァルナ
半壊した船からなんとか塔のバルコニーへと足を下ろした。それほど時間は立っていないというのに、やはり足の裏に地面がついているのは良い気分だった。
バッシュがキョロキョロしている間にルカーーーその体にケガレとなって入り込んだ人魚・ヴァルナーーーもバルコニーへと降り立った。
ルカは壊れた船をそっと撫でた。左右に広げた翼はひしゃげ、胴体には不時着する時についた傷が深く抉れていた。
(お前は十分頑張ってくれた…ゆっくり休んでくれ)
ヴァルナがそう呟くと役目を終えた空飛ぶ船はゆっくりとバランスを崩して塔のバルコニーから落下して行った。
「おい。…悪いけど時間がない。お前も来るか?」
バッシュの問いにルカの体に入り込んだヴァルナが答えた。その顔は心なしか晴れやかに笑っているようにも見えた。
(ああ。時間の許す限り、キミたちが成すことを見届けよう)
◇◆◇◆
「やぁ」
アーク司祭は赤いベルベット生地のソファにもたれそれはそれは優雅に座っていた。『監禁』『誘拐』…などという物騒な話は一体なんだったというのか。
「オイ!クソ生臭アル中司祭!テメェ、オレの荷物に勝手に変なもの入れるんじゃねー!」
「おやおや何のことでしょう?私はあなたに報酬を渡した時に“たまたま”“偶然”私の大事な手鏡が入り込んでしまっただけですよ?」
「その言い草!!明らかに全部、計算済みじゃねえかーッ!」
バッシュの叫びもなんのその。アーク司祭は白く濁った液体の入ったグラスを手に取り、静かに口元に運んだ。液体がグラスの中でゆらりと揺れ、まるで月明かりを飲み込むかのように透き通った緑が微かに滲んでいた。
一口含んだ瞬間、冷たい感触が喉を滑り、次第にその熱が身体を駆け巡る。視界が揺らぎ、空気が柔らかく、あらゆるものがゆっくりと溶け合うように見える。まるで時が緩やかに流れ出したかのように、彼の周りの世界が静寂の中で螺旋を描く。
その香りが鼻をくすぐり、背後から漂う深い森の風のような幻想が、目の前に浮かび上がる。アーク司祭はまるでその瞬間、現実と夢の境を越え、どこか遠い場所に足を踏み入れたような表情を浮かべた。
「いえね…私は信じていましたよ。きっときてくれるだろうって」
バッシュくんだったのは予想外でしたが、とアーク司祭は付け足した。
「チッ…嫌なヤツ」
バッシュは悪態を吐きながらポトロが用意した手鏡をアーク司祭に渡した。アーク司祭は手鏡を緩慢な動作で受け取るとじっと見つめた。その表情に違和感を覚えてバッシュは腕を組んだ。
「なんだよ…それを使ってアンタらの言うロウシサマに会いに行くんだろ?」
「ああ…ミレーユたちはそこまで話しているのですね。」
アーク司祭は少し間を置き、視線を下に向けながら、ゆっくりと口を開いた。
「…私はね、恐ろしいのですよ。」
「恐ろしい?」
アーク司祭は軽く眉をひそめ、何かを考え込むように手に持つグラスを少し震わせた。
「ええ。大切な人が、もうこの世からいなくなる。認めたくない。…怖いんだ。」
アーク司祭のよく通る声はわずかに震えさせ、目を伏せたまま、深いため息をついた。
バッシュがアーク司祭を勇気づけるシーンは、彼の強い感情とアーク司祭への複雑な思いが交錯する瞬間として描けると良いですね。以下はそのシーンの提案です。
「な、何のために苦労してここまで来たと…!」
「すまない…情けないと笑ってくれたまえ。」
苛立ったバッシュはアーク司祭の手からグラスをもぎ取ると、地面に投げつけた。
グラスは割れ、音を立ててその破片が飛び散る。
バッシュは息を荒げ、両手を拳にして強く握り締めた。目の前に立つ司祭の姿を見据え、彼の内に湧き上がるものを言葉に変えてぶつけた。
「情けねぇ…情けねぇぞ!ずっと、ずっと老師のジィさんが苦しい中でアンタが来るのを待ってんだぞ!」
声が震えるのを必死に抑えながら、バッシュは一歩前に踏み出す。
「お前が怖いのはわかる。だけど、どんなに怖くても、死んじまったら終わりなんだ。もう会えない。お前のために…俺たちがここまで来たんだろ?」
一度、言葉に詰まりそうになったが、バッシュはそれでもなお、力強く続けた。
「…アンタだって、わかってんだろ?がんばれよ。踏み出せよ。アンタらしくねぇぞ!」
そこにいるアイツだって友達のためにここまで来たんだよ。バッシュはそう言いながら部屋の隅でじっと立つ男を指差した。
アーク司祭はそこでようやく男の存在を認識した。
そこに立つ生気のない男の姿からもう肉体の主はこの世にはなく、代わりに『ナニカ』がその身に宿していることを瞬時に理解した。
しかし、不思議なことに過去にあったどのケガレよりも敵意や憎悪がまるでないことに気づき、おそらくもう男に取り憑く執着は昇華されているのだと分かった。
「ああ、キミは…」
(バッシュくんのおかげだ。私はようやくルカを解放してあげることができる)
「ポトロだ。ポトロがコイツの船を飛べるようにしてやったんだ」
(そうだな。彼にも感謝を伝えてくれ。ありがとう)
ルカに宿るヴァルナは司祭の方へ体を向けた。
(司祭よ。話は聞いている。死の別れに立ち会う恐ろしさをどうか否定しないでくれ)
「否定…」
(恐れて良いのだ。だが、向き合うことから逃げないでくれ)
ルカの姿をしたヴァルナはもう一度バッシュに向き合い、静かに言った。
(バッシュくん。きっとこれが最後だ。私の鱗はあらゆる万病に効くと言う。鱗をすり潰した粉を水で溶き、あの少女の喉を洗うと良い。)
「少女って…キランのことか?」
(どう使うかはキミに任せよう。キミなら上手く私の亡骸を生かせるだろう。私のせめてもの恩返しだ。)
その言葉に、バッシュは顔を曇らせた。まるで別れを予感させるようなヴァルナの口振りに、何か言いたいことが喉元まで込み上げる。
「おい…何だよ、それ――」
言いかけたその瞬間だった。
「――!」
短い、鈍い音が響き、ヴァルナの頭がぐらりと傾く。バッシュの目の前で、ルカの体が崩れ落ちるように膝を突いた。
「ルカ――いや、ヴァルナ!」
慌てて駆け寄ろうとしたバッシュの前に、出入り口から数人の男たちが姿を現す。全員が黒い防具に身を包み、手には重厚な武器を構えていた。その顔には何の感情も浮かんでいない。
「敵か…ッ!」
ヴァルナを撃ったのはその中の一人だ。彼は銃口を煙らせたまま、冷たい視線でバッシュとアーク司祭を睨んでいた。
「侵入者か…面倒なことを起こしてもらっては、困るのですよ司祭様」
現れた男たちの中で、中央に立つ一人が口を開いた。彼は護衛のリーダーらしく、他の者たちよりも一際威圧感を漂わせている。
「アーク司祭様、どうぞこちらへ」
リーダーの合図とともに、護衛たちは無言で武器を構え直した。
「ふざけんなよ…!このクソ野郎どもが!」
バッシュは怒りに震えながら拳を握りしめた。倒れたヴァルナを見て、自分の無力さに奥歯を噛み締めた。
敵は銃を構え、彼らの武器は圧倒的な殺意を帯びている。それに比べ、自分には剣どころか素手で立ち向かう覚悟しかない。震える拳を握りしめた。
「くそっ…!」
悔しさに唇を噛みしめながら、バッシュの視線は倒れたルカ――いや、ヴァルナへと向かう。血のような赤い染みを残して静かに地面に横たわっていた。
叫ぼうとしたその瞬間、妙な音がした。
「……え?」
小さな音だ。だが、それは確かに聞こえた。骨と骨が擦れ合うような、関節が不自然に動く音。
バッシュが振り返った瞬間、ルカの体がわずかに動くのが見えた。
「……っ、ルカ?」
バッシュの声を聞いているのかいないのか、倒れていたルカがゆっくりと立ち上がり始める。その動きは人間らしいと言うにはあまりにもぎこちなく、それでいて静かだった。
「……なんだあいつ、生きてるぞ」
敵の一人が口を開いた。その声には動揺が混じっている。
「おい、冗談だろ。頭を撃ったはずだぞ…!」
もう一人が言った。周囲の護衛たちも次々と声を上げ始める。
「なんだ?仕留めたんじゃなかったのか?」
「いや、待て…あれは、あれは…本当に生きているのか?」
騒然とする敵たちの視線がルカに集まる。その場にいる誰もが直感していた。目の前の「それ」は、自分たちとは完全に異なる何かだと。
バッシュは言葉を失ったまま、その光景を見つめていた。
ルカの姿をしたヴァルナは、まるで血管に冷たい何かが流れ始めたかのように、背筋をすっと伸ばした。そして、顔を上げる。瞳の奥には、明らかに生者のものではない暗闇が宿っていた。
敵の一人が震えながら後ずさる。
「……ば、化け物だ!」
その瞬間、空気が凍りついた。集団は完全にパニックを起こしていた。リーダー格の男が怒号を浴びせて鎮めようとしたが、無意味であっま。バッシュはその場で立ち尽くしながら、ヴァルナの動きから目を離せない。
「伏せろ!」
その時、アーク司祭の低く鋭い声が響く。
アーク司祭はソファの後ろにバッシュを押し込むと、すぐさま辺りを見回し、手元にあったアルコールグラスを掴み取った。
その中身は翠色の液体――。
鋭い声とともに、司祭は目の前に立ちはだかる敵兵たちに向けて酒瓶を力任せに投げつけた。ガラスが割れる甲高い音とともに、液体が絨毯に染み渡った。
「うっ、なんだこれ!」
「酒だと?クソッ、目に入った!」
司祭はテーブルに置かれていたランプを掴んでいた。それは簡素な油式のもので、炎が細く灯っている。
「どうせなら――派手に燃えてもらおうか」
司祭は冷ややかに呟くと、ランプを掴んで投げつけた。
ランプが飛び散った酒瓶や液体の染みた絨毯に命中するや否や、炎が一瞬で広がった。翠色の酒に火がつき、燃え上がる炎が敵たちの足元を包み込む。
「火だ!火が!」
「くそっ、後ろへ退け!退けッ!」
敵兵たちはさらに混乱し、後退し始める。その隙に司祭はバッシュを振り返り、短く叫んだ。
燃え盛る炎の熱が肌を刺し、室内に漂う焦げた臭いが二人を包む。
瞬間、身を屈めていたバッシュの腕をアーク司祭は掴んだ。その力強さに、一瞬バッシュの動きが止まる。
「なっ、何を――」
「早く!」
声の勢いに押されるように、バッシュは司祭に引っ張られるまま足を動かした。敵の銃声が響き、散らばる破片が二人の頭上をかすめる中、アーク司祭はためらうことなくバッシュを赤いベルベットのソファの陰に押し込む。
「大した時間稼ぎにはならんだろう……!」
バッシュは息を乱しながら床に身を縮める。荒い毛足のカーペットが掌に触れ、無意識に拳を握り締めた。
「……こんなところで縮こまってる場合じゃねえだろ!ルカが、ヴァルナがっ」
不満げに呟くと、司祭が冷ややかに睨みつけてきた。
「バッシュくん、冷静になれ!ここで死んでしまえば何も守れない!」
その言葉は、どこか鋭い叱責ではなく、遠い痛みを含んでいるようだった。
アーク司祭は慎重にポケットを探り、小さな手鏡を取り出した。丸みを帯びた銀縁が鈍い光を反射する。彼はそれを両手で包み込むように持ち、息を整えながら指で軽く触れた。
アーク司祭はバッシュの手を掴み、手鏡の中へと引き入れた。最初の時には気が付かなかったが生温いぬぷりとした不思議な感覚が指を包んだ。バッシュは無意識にルカのいる方を振り返った。
燃え盛る炎の中で仁王立ちする異形の背中は、まるで世界を背負って立つかのように壮絶な存在感を放っていた。
炎がその肩を、腰を、そして髪を舐めるように激しく燃え上がり、影と光のコントラストがその姿を一層神々しく、あるいは恐ろしさを増して見せる。周囲が焼け尽くす中でも、その動きは一切揺らぐことなく、静かに、しかし確かな意思で立ち続けていた。
ルカとヴァルナ、二人でひとつの姿はまるで全てを悟ったかのように静かだった。燃え盛る炎の光に照らされたその背中は、どこか儚く、そして決意を宿しているように見える。まさに「終わり」を迎えようとしている瞬間そのものだった。
バッシュは言葉を発することもできず、その背中をただ見つめていた。手鏡の冷たい液体が腕から肩、胸元へとじわじわ広がり、粘つく感触が全身を包み込んでいく。まるで鏡そのものが生きているかのように、自分を捕らえて離さない。
「――まだ…別れも言えてねぇのに…!」
心の中で叫んだその時、視界は暗闇に閉ざされた。ぬるりとした液体が最後に顔を覆うと同時に、二人の背中は完全に消え、見えなくなった。
静寂だけが耳を支配し、バッシュの体は何処とも知れぬ深い闇へと沈んでいった。




