友の名は
船は夜空を滑るように進み、下を見ればとっぷりと黒い海が広がっている。海面は静まり返り、まるで何も動いていないかのように、星の光すら届かない。我々の船の心許ない灯りがその漠然とした闇を切り裂き、束の間に何も映さない鏡のような海を照らす。
海の底は見えず、闇の中に溶け込んでいく。空と海が一体となり、無限に続く闇だけが広がっている。船はその中を進み続け、どこまでも孤独な旅路を描いているかのようだ。
『私』は彼の目を通して空から世界を見ていた。
これが、この景色ぐあれほど渇望していたものなのか。
目の前で死んだ友人の肉体を愚弄するように取り憑き、生きる死人として永遠のような孤独を過ごしてもなお諦めることのできなかったあの空が、あの空がこれほどまでに…。
私はルカの屈託のない笑顔を思い出していた。
目から溢れ出す何かを止めることができなかった。
「あ〜…よいしょっと…!」
操縦席にヒョイっと傾れ込んだバッシュは、しばらく生きている心地を確かめるように深いため息をついた。体中がガタガタと震えている。
「マジで死ぬかと思った…」
そう呟きながら、半ば横取りする形で操縦席に深く腰を下ろす。だが次の瞬間、妙な感触が背中越しに伝わってきた。
「ん?なんだこれ…?」
バッシュが怪訝そうに尻の下を探ると、そこから小さな手鏡がひょっこりと姿を現した。
「……あいつ、いつの間に…」
バッシュは手鏡を取り出し、しげしげと眺める。見覚えのあるデザインだ。それは最初ポトロたちに手鏡でこちらに引き込まれた時と同形式のものに思われた。鏡面は異様なほど澄み渡り、冷たい光を帯びている。それを見て、自然とため息が漏れた。
「ったく…本当にすげぇやつだな。ポトロは…」
ポトロは、おそらく2人のうちどちらがなんらかの理由で脱落しても良いように準備をしていたのだ。
バッシュはぼそりと呟きながら、手鏡をしっかり握り直す。
「無茶な作戦だけど、考えたやつも無茶だからな…」
ポトロの真剣な顔が脳裏に浮かび、バッシュは苦笑する。あいつはずっと本気だった。どれほど無謀でも、あの司祭を救いたいという意志が伝わってきた。
あいつら大丈夫かな…。
バッシュが2人の身を案じ始めていると隣の男の肩が突然震え始めた。
「えっ?」
ギョッとするバッシュの視線の先、無言の男が両手で顔を覆い、嗚咽をこらえるように泣いていた。
「ちょっ、なんで泣いてんだよ!?おい、しっかりしろって!」
大人の男が泣いているのを初めて見たバッシュがやがて気まずそうに外を見てから、ふっと思いついたように口を開いた。
「…そういえばお前、なんて名前なんだよ?」
な・ま・え!
少年は荷物の中の小瓶を取り出し、『私』に問いかけた。
(…私の名はヴァルナだ。友の名はルカ)
「ヴァルナとルカ、か」
バッシュはその名前を繰り返すように呟いた。名前の響きが似ていると思ったのだ。ヴァル。ヴァル=キュリア。オレを化け物たちのいる異様な世界へと招いた雇用主。ふと一瞬、頭に浮かんだのは巌窟街で見たヴァルの背中だった。
(…ヴァル…)
胸の奥にわずかな痛みが走った。あんなに必死に隠していた感情が悪戯に蠢いた。バッシュはなんとかやり過ごすために狭い空間の中を膝を降り両腕でギュッと抱きしめた。
(どうしたのだ。人の子よ)
「なんでもねぇよ」
(…巌窟街で共にいたアレのことを思い出したのか)
『アレ』というのがおそらくヴァルのことを言っているのだと思い、バッシュはゆっくりと顔を上げた。いつからこの小瓶の鱗はオレのことを見ていたのだろうか。いや、それよりも。なんだろう。違和感を覚える口振だった。
(伝えるべきか迷ったが…お前には恩義がある)
そう呟くような声とともに、小瓶の中の鱗が一際強く発光した。白い光は次第に赤へと変わり、脈打つように点滅を繰り返す。その光には焦燥の色が滲んでおり、まるで何かを必死に訴えかけているようだった。
(アレは、もはや人間ではない。いや、人間ではなくなりつつあるという方が正しいか。…いずれにせよ、気をつけることだ)
警告とも取れる声が響いた瞬間、鱗は最後に眩い閃光を放ち、再び静けさを取り戻した。
「…なんだよそれ!?」
ーーー人間ではない。
ヴァルが?どういうことだ?
その言葉の持つ意味を理解できないままバッシュは小瓶を睨みつけながらぽつりと呟いた。が、その答えを求める間もなく、どんどん塔との距離が近づいてくるのに気がつくのにそう時間はかからなかった。
「…はっ。そもそもこれ、どうやって塔に着陸するんだ?」
船がみるみるうちに塔に接近する中、そんな疑問が頭をよぎった瞬間だった。バッシュに操縦席の半分を横取りされた男は無言だった。生気の無い手で操縦桿を握り締め、眉一つ動かさずに正面を見据えている。
「ちょ…おい!本当にぶつかるぞ!」
バッシュは操縦席から外の景色を見て叫んだ。目の前には塔の壁が迫ってくる。回避のそぶりもなく、船は真っ直ぐに突き進んでいた。
「おい、止めろって!どうやって止めるんだ!?おい!聞いてんのか!」
隣の男を叩こうと手を伸ばすが、返ってきたのは無言のままの無反応。そして手の中の小瓶の鱗は、またもや発光していた。
(問題ない)
「問題しかねえだろ!」
叫び声を上げる暇もなく、船は塔の壁に激突――かと思いきや、不自然な角度で壁に沿って擦れながらそのままズリズリと不恰好な「着陸」を始めた。船体の金属が火花を散らし、振動が船内を激しく揺さぶる。
「これ、着陸って言うか!?ただぶつけてんじゃねえかあああ!」
バッシュはしがみついた操縦席の縁から叫ぶが、男は依然として無表情のまま操縦桿を握り続けている。その顔には一切の焦りがない。
やがて船がギリギリ張り出したバルコニーに引っかかる形でようやく停止した。
沈黙が訪れる。
「……死ぬかと思った。」
バッシュが呆然と呟くと、鱗は淡々とした声を響かせた。
(これが正しい方法だ)
「いや正しいわけあるか!」
バッシュの呆れた声だけが響いていた。




