3人の人間と1人のケガレのいる食卓
バッシュは息を整えながら、ミレーユに状況を伝えた。不気味な男とそれに絡む人魚の話、そして空を飛んで塔を目指すことになった経緯を。ポトロは空飛ぶ船の調整を進めているが、まだ完璧には至っていない様子で、試運転にはもう少し時間がかかるだろうということだった。
ミレーユはその報告を静かに受け止め、黙って思案していた。
月明かりが彼の端正な顔を照らし、わずかな心配が浮かんでいたが、それもすぐに消え、落ち着いた様子で頷いた。
説明を終えたバッシュは、ふと外の景色に目をやる。
室内の湿気を含んだ空気が肌にまとわりつき、静けさが部屋を包んでいる。窓の外には、ひときわ高い塔が月光に照らされて薄く輝き、静かな海に浮かぶようにそびえ立っている。ぼんやりとしたその輪郭が、まるで夢の中のように浮かび上がる。
室内の温かな空気とは裏腹に、外の空気はひんやりと冷たく、夏の夜の湿気が彼の肌に沁みていく。バッシュはその塔を見つめ、深く息をついた。
◇◆◇◆
海沿いの街から少し外れた場所にあるその工場は、古びた鉄の構造物が重なり合い、内部からはガチャガチャと機械の音が聞こえてくる。薄暗い空に浮かび上がるその場所は、いかにも不安定で、まだ未完成の船のように、無骨で荒々しい印象を与えた。
工場の入口に立つと、バッシュは一瞬足を止め、ミレーユを見た。彼の表情には少しの不安が滲んでいる。しかし、すぐにそれを振り払うように力強く歩き出すと、ミレーユもその後ろに続いた。
工場の中に足を踏み入れると、工場の中で忙しく動き回るポトロの姿が目に入る。ポトロは一心不乱に機械を調整しており、バッシュたちが入ってきても気づかない様子だった。
ポトロは手を止めて振り向き、「来ましたね!」と、無邪気に声を上げた。工場の中は生温い空気と湿った金属の匂いが漂っていた。
ポトロはミレーユの顔を見て、急いで駆け寄ってきた。油に汚れた顔を心配そうに拭いながら、声をかけた。
「ミレーユさん、勝手に色々と進めてしまい申し訳ありません」
ミレーユはその言葉を受けて、少し目を伏せ、口を開いた。
「いや、むしろすまないな。私が何もできないばかりに…」
その言葉には、自分の無力さを感じ取ったような沈んだ気持ちが込められていた。ミレーユの目には少しの苦しさと後悔が浮かんでおり、それを隠すように表情をすぐに整えた。
ポトロはその様子を見て、すぐに反応した。
「いや、そんなことないです。…ミレーユさん、無理に一人で背負い込んじゃダメですよ」
その言葉に、ミレーユは一瞬驚いたような顔をして、やがて少し肩の力を抜いた。ポトロが心配する様子を見て、微かに頷きながら、軽く笑って言った。
「ありがとう、ポトロ。でも、お前も無理はするなよ」
ポトロはその言葉に応じることなく、もう一度作業に戻りながら、どこか安心したようにほっと息をついた。
それからミレーユは古い椅子に座ったままの男をじっと見つめた。この工場の主人にして死人。体の内側をケガレに犯された動く屍だ。
ミレーユもその男の違和感を肌で感じ取ったのか、無意識に腰の剣の柄に手を添えていた。鋭い目で男の動きと表情を観察し、何か不穏なものを感じ取っていた。
バッシュは慌てた様子で身振りを交えながら説明を始めた。ミレーユの視線が厳しく男に向けられている中、バッシュは男のことについてなるべく簡潔に、そして敵意がないことを伝えた。男はケガレに取り憑かれているらしいが、今のところ危険はないと言っている。未練を解消できれば、すべてが解決するはずだと言葉を続ける。
ミレーユは、バッシュの言葉を静かに聞きながらも、表情を変えることはなかった。しばらく沈黙が続き、彼は思案するように目を閉じた。
ようやく、ミレーユは軽く頷いて剣の柄から手を離した。静かな空気がその場を包み込んだ。何も言わず、バッシュに何かを託すようにその姿勢を整える。
バッシュは肩を少しリラックスさせ、安堵の息をついた。
空飛ぶ船の修理がひと段落終えると工場の中は静けさを取り戻していた。機械音が途絶え、ひんやりとした空気が流れる中、バッシュが手際よく食事の準備を始めた。ポトロとミレーユはそれぞれ作業を終え、テーブルに向かう。
バッシュが用意したのは、簡素だが心のこもった料理だった。
乾燥肉と野菜の煮込みがメインで、手に入りやすい食材を活かした、素朴な一品だ。工場の小さなキッチンからは、料理の香りが漂い、久しぶりに温かい食事が味わえることに、どこかほっとした気持ちが湧き上がる。
バッシュがテーブルに料理を並べると、ポトロとミレーユが席に着く。ポトロは食器を手に取ると、少し嬉しそうに顔を上げた。
「なんだ、バッシュさんがこんな料理を作るとはな。意外だなぁ」
バッシュは軽く肩をすくめながら、無理なく食事を並べ続ける。
「うるさいな。オレは単なる雇われだ。これも料金のうちさ」
そのやりとりに、ミレーユは無言で席に着き、静かに食事を取る前に、手を胸の前で組み、目を閉じた。バッシュとポトロは、ふとその姿に気づき、手を止めた。
ミレーユは穏やかに、しかし確かな声で言った。ポトロもそれに付き従うように両手を重ねて祈りを捧げた。
「神明よ、今日もまた私たちに命を与え、食を恵みたまえ。どうか、この食事を守り、私たちの歩みを導き給え。」
バッシュは肘をついて、祈りを捧げる2人の様子を無言で見守っていた。ミレーユとポトロが祈りを終え、目を開けて手を解いた。ゆっくりと顔を上げ、「ありがとう、神よ」と小さく呟くように言った。
「食前に神に感謝を捧げるってのは、やっぱり良いもんですね」とポトロが静かに言った。
バッシュは苦笑を浮かべながらも、同意するように頷いた。
「ま、確かにな。神様に感謝しないと、オレの料理を食べる資格もないかもな」
ポトロは軽く笑いながら、「うわぁ…バッシュさんらしいですね」と言った。バッシュはフンとしながらも、ポトロとの掛け合いを楽しんでいるようにも見えた。
三人にとって、これは初めての食事だった。ポトロが一口食べると、少し驚いたように顔を上げた。
じっくり煮込まれた肉と野菜が、皿の中でほろほろと崩れそうになっている。乾燥肉の豊かな旨味が染み込んだスープは、濃厚でありながらもさっぱりとした後味が広がり、ひと口食べるごとに体の芯から温まるようだった。
たっぷりの玉ねぎとニンジンが柔らかく煮崩れ、ほのかに甘い香りを放ちながらスープに溶け込んでいる。バッシュが即席で作った焼きたてのパンと一緒に食べると、まるで心まで温かくなるような、優しい味わいだった。
「大変な状況なのに、バッシュさんのご飯、美味しいですね」
バッシュは当然だろうとばかりに無言で肩をすくめ、軽く笑った。
「ああ…うまいな」
ミレーユがポトロに同意するように、小さく頷きながら言った。その言葉に、三人の間にほのかな温かさが広がり、束の間の穏やかなひとときが流れた。
3人が食事を囲む中、その男はただ静かに、工場の隅に置かれた古びた椅子に腰掛けていた。彼はその場の賑わいに加わることなく、まるでそこにいないかのような静けさで座っている。
薄暗い灯りがその男の顔を照らしていたが、瞳にはどこか虚ろな光が宿っていた。生者の持つ輝きではなく、むしろ長い時を超えた何かが、そこにただ漂っているかのようだった。
男の動きはほとんどない。食事を必要としない彼は、目の前の温かい食卓に関わることもなく、ひたすら静かに時間が過ぎるのを待っているように見える。その体から漂う冷たさは、周囲の温かい空気と絶妙に対照的だった。
椅子の木材がわずかに軋む音が響くたび、3人の会話に小さな隙間が生まれた。しかし、彼らが気を遣うような素振りを見せることもなく、男自身もその隙間を埋めようとする気配を微塵も見せない。
月明かりが差し込む窓辺から、その男の肩に柔らかな光が当たる。だが、それが彼に温もりを与えることはない。まるで生の営みから完全に切り離され、ただそこに存在するだけの器。かつての生者の名残を留めながら、なおも何かを待ち続けているかのようだった。
時折、バッシュたちの笑い声やスープの匂いが空気を満たしても、男の表情はまるで変わらない。椅子に腰を下ろしたまま、彫像のように沈黙を保っている。その姿には、不気味さと哀愁が入り交じり、存在自体が何か異質なものを感じさせた。




