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番人の葬儀屋  作者: あじのこ
第4章 波間の約束
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回想1

回想1〜3は人魚の回想となります。

ややグロテスクな話にはなります。ご了承ください。

『私』は、海の底に留まる古い記憶の欠片。


海の始まりから、ここにいる。生命が形を成し、陸地が現れる前の海はただ静かで、あらゆるものが循環の中にあった。捕食と生存、それ以上の意味は何もなかった。


だが、陸に住む者たちが変わり始めた。遠い波音に混じる雑音は徐々に近づき、やがて水面を裂く船となって現れた。それは初めのうちは単なる影だった。やがてその影は、私たちの世界に牙を剥いた。


網に絡み取られた仲間が、引き上げられ、刃で裂かれ、鱗を剥がれた。その姿を、臆病者の私はただ見ていた。

やがてそれは偶然ではなくなり、海を通り過ぎる船の影を見るたびに、誰かが消えていった。残酷で愚かな行為だと、心のどこかで感じていた。だが、私は動けなかった。彼らに触れたところで何が変わるわけでもない。


仲間が全ていなくなったあとも、私は海の中にいた。人間が作り出した騒音が届かない、深い静寂の中に。そこでは波音すらも遠い。そこから眺めるのが、習慣になっていた。


たまたま私は、その日は浅い水面の下から空を眺めていた。今日もまた波間を裂いて進む船影が見える。それは、これまで幾度も見てきた人間たちの繰り返しに過ぎない――そう、思っていた。


だが、その船影は、突然予想外の動きを見せた。


水面を飛び越え、空へ――その船は、空を飛んだのだ。


私は、思わず目を見開いた。

船体は小さく、不恰好で、風に抗う鳥のように危なっかしかった。それでも、確かにそれは海と空の境界を越えていた。水面に縛られていた私にとって、それは想像の及ばない光景だった。


船の中に一人の人間が見えた。彼の顔は歓喜に輝いていた。宙に浮かぶ不安定な船を操る手つきには確信がある。それは、自分の夢が今まさに現実になった瞬間を知る者の表情だった。


しかし、空を切る音が変わった。


船体がぐらりと傾き、風を切る翼がもつれたように見えた。その動きは一瞬で不安定さを増し、重力に抗い切れなくなった船が真っ逆さまに海へと落ちていく。


激しい音と共に、水しぶきが大きく広がった。

海に落下した船体は、泡を巻き上げながらゆっくりと沈んでいく。その中に、さっきまで喜びに満ちていた男の姿があるのが見えた。彼は意識を失い、無防備に揺れる船と共に深く沈んでいく。


私はただ見ていた。


これまでの人間と同じだ――そう思えば、放っておくこともできた。それでも、目を閉じて泡に飲まれるその姿を見ていると、胸の奥に微かな棘のような感覚が走った。


私は彼のもとへ泳ぎ、腕を掴む。

その体は驚くほど軽く、脆かった。


彼を引き上げる途中、彼の船に触れる。そこには彼が作り上げた夢の形があった。だが、その夢はもう壊れている。それを知っても、私は何も思わない。思ってはならない。ただ彼の手をしっかり掴み、水面へと向かった。


息を吹き返した彼の表情がどんなものか、私は見なかった。ただ、砂浜に彼を置き去りにして、私はまた静かな深海へと戻っていった。


◇◆◇◆


私は再び静かな海に戻っていた。

あの船が空を飛び、そして落ちた水面は今では波間に呑まれ、何事もなかったかのように泡を立てては消え去っている。深い水の中に潜り込み、周囲を漂う魚たちを眺めながらも、どこか心が重い。


海面に浮かぶ壊れた空飛ぶ船。波に揺れながら、かつて空を駆けたその姿はすっかり傷だらけだ。私は静かに近づき、手を伸ばして船体に触れた。


冷たい金属が指先に伝わる。船はもう動かない。だが、どこか懐かしく、まだ誰かの夢を感じるような気がした。


『この船も、もう動くことはないのだろう』


私は小さく呟き、さらにゆっくりと船体に触れ続けた。何も答えることなく、海の中でその静けさだけが広がっていく。


彼を助けた理由がわからなかった。

放っておけば、ただ泡と共に沈むだけだったのに。なのに私は彼を掴み、息を吹き返させ、またあの陸の世界へ返してしまった。それはどこか、自分に対する裏切りのように感じられた。


人間を助けた――それは、長い孤独の中で私が避けてきた行為だった。


私は目を閉じる。

この海の中に溶け込んで、何もかも忘れてしまいたい。だが、その時だった。


水面を裂く音が聞こえた。


小舟だった。

かつて幾度も見た、人間が操る小さな舟。私は無視するつもりだったが、ちらりと視線を向けた瞬間、その舟の中に立つ男を認めてしまった。


人間は、壊れた船の周りで必死に作業を続けている。何度も何度も手を伸ばしては、船の残骸を整理しているようだった。


私は、じっとその姿を見つめていた。最初はただの観察者として、静かに海の中に隠れていた。しかし、次第にその動きに気持ちが引き寄せられていく。


その時、突然、何かが海の上から私の方向に投げられた。ロープだ。


目の前に勢いよく落ちたそれは、明らかに私が掴むべきものではなかった。しかし、私は恐る恐る手を伸ばし、そのロープをしっかりと握った。


そのまま、ロープを持って上へと昇り、青年の方に渡す。彼の目が驚きとともに私に向けられたが、私はそれに答えることなく、ただ渡すだけだった。


青年が呆然とした表情で、私が渡したロープを引き寄せた。


青年がロープを引き寄せ、目を見開いて私を見つめた。


「…お、驚いたな。人が泳いでいるなんてわからなかった」


私は無言で彼を見つめる。


「ここまで泳いできたのか?ずいぶんと…陸から離れているが…」


その問いに、私は再び沈黙を貫いた。何も言わずにただ目を伏せ、彼の言葉に答えない。いや、答えられないのだ。人魚という種族には陸で上がって音を出す機能がなかった。


私は水面に浮かんだまま、しばらく無言で青年を見つめていた。彼は今、船の一部をどうにかしようと必死に腕を振り回していたが、その様子は決してスムーズではない。それでも、彼の目には諦めることなく、なんとかしなければならないという強い意志が宿っている。


少しずつ、私の中で何かが動き始めた。最初は見ているだけだったのに、次第にその手助けをしたくてたまらなくなった。だが、私は何も言わず、ただ静かに水中で動き出す。口から一言も出さず、青年が気づかないように、静かに近づいていく。


まず目に入ったのは、船体に絡まったロープ。たるんだロープが波に揺れながら水面に浮かんでいる。その端を私は水中でそっと掴み、少し引っ張ってみる。重いロープが引き寄せられる感触が伝わってきた。


青年は私の動きを気づかないまま、何度もロープを引き、船体を動かそうとしている。私はそのすぐ横に来て、息を呑みながらロープを巻き付け、船体に引っ掛けるように動かす。青年があまりにも必死に作業しているから、私が手伝っていることに気づかれることはなかった。


ロープを巻き付けると、私は少しだけ力を入れて船を押す。それだけで、船体が僅かに前進する。その瞬間、青年が振り返って、ちょうど私の手の動きを目にした。


「あ、ありがとう!君、まさか…」彼は私を見つめ、言葉を失ったようだが、すぐに続けた。


「君も手伝ってくれるのか?」


私は何も答えず、ただ水面に浮かびながらロープを引っ張り、船体が少しずつ動くのを感じる。その動きが確実に船を進ませていくのが、私にとっては何よりも新鮮で、嬉しかった。


「すごいな、ありがとう!」


青年は少し驚きながらも笑顔を見せ、引き続きロープを引き寄せようとする。


私は無言で、彼の動きに合わせてロープを押し、船体をさらに前に進める。心の中では、彼の無駄のない動きに見入っている自分がいた。この人間がどれほどの力を持っているのか、どうしてこんなにも必死になれるのか、私はもっと知りたくてたまらなかった。


とはいえ、船を運ぶ作業は思った以上に重労働だった。作業が進むにつれてこんなこと気楽に手伝うものではないと私は少し後悔し始めていた。


太陽が海に近づく頃まで青年と私は、壊れた空飛ぶ船の一部を慎重に引き上げるために協力しながら、作業を続けていた。彼は力を入れて船の一部を引っ張り、私は水中から支えとなる部分を引き上げる。少しずつ、船は海面に浮き上がり、そして夕暮れが濃くなる岸へと近づいていった。


「オレ、海街育ちなのに泳ぐのはからっきりダメで…いやぁ、助かったよ」


青年が息を切らして言った。どうやら、泳げないことが少し気まずいらしい。


「君、すごいな。ここまで泳いでくるなんて。ずっと海に入っていて寒くはないのか?」


彼は感心したように言ったが、私は何も答えなかった。しばらくして、私の手が自然に動き、青年が投げたロープを引き寄せてしまった。何の考えもなく、そのままロープを彼に渡す。


「これ、持っていてくれ」


青年が息を切らして言った。

私は無言でロープを引き寄せ、彼に渡す。青年は驚いた表情を見せながらも、すぐにロープを受け取って引っ張り始めた。ずいぶんと浅瀬に来ていたことに、私は気が付かなかった。


「ありがとう。そういえば君、どこから来たんだ?」


私は口をつぐんだ。答えられない。

青年が一息つくと、再び言葉を漏らした。


「すごいな、こんな遠くまで泳いでくるなんて。泳げること自体、オレには信じられないよ。」


その時、私は無意識に後ろに下がった。

青年が振り向き、私の動きに気づく。目を見開いて、少し驚いたような顔をする。けれど、すぐに何かを思い出したように顔をしかめ、少し不安げな声で言った。


「君…?」


その時、青年の目が私の足元に一瞬とどまる。私はそれを感じた。浅瀬に来過ぎてしまった。砂浜の上で、尾鰭が水面にひらりと現れたのだ。


夕暮れの光が水面を赤く染める中、私の尾鰭がほんのりと輝き始める。光を受けた鱗が虹色にきらめき、まるで水面に小さな光の橋を架けるように、ゆっくりと揺れた。


私は焦って、目をそらす。無意識に尾鰭を隠そうと体を動かすが、遅かった。青年がゆっくりと私を見上げ、私の姿を凝視していた。


「まさか…君は?」


青年は驚きと困惑の入り混じった表情を浮かべている。私が見せたのは、秘密にしていた一番の部分――人間ではない、私の証だった。


私は何も言わず、ただその場を立ち去ろうと後ろに歩き出す。しかし、青年が声をかけた。


「待って…ねぇ!待ってくれ!」


青年の声には、恐れや警戒ではなく、ただ純粋な心配が込められていた。


私は再び振り返ることなく、ただ海の中へと姿を消した。水面に広がる波の音が、彼の声と共に消えていく。


私は後悔した。

人間に関わろうと思ったのが間違いなのだ。


海の深く、静かな水の中で私はひとり、ただ沈んでいた。頭の中にあの時の青年とのやり取りが繰り返し流れる。彼の声、手を差し伸べる姿。人間に対する好奇心から、無意識に近づいてしまった自分が、急に愚かに思えてきた。


ーーーあの時、手伝わなければよかったのだろうか?


何も言わずに静かに海に戻ればよかった。人間と関わることの危険を、私はまるで忘れていた。彼が見た私の尾鰭、あの瞬間の驚きの表情が、胸に重く響く。


(もう…近づかないほうがいい)


私は何度もそう思いながら、海の冷たさに身を委ねる。しかし、心のどこかでは、その若い人間の姿が忘れられなかった。


その時、頭上から不意に何かが降ってきた。 最初は小さな音から始まり、それが次第に大きくなっていった。何かが、まるで降雨のように、落ちてきたのだ。


人魚はその異変に首をかしげ、目を大きく見開いた。その瞬間、頭上からロブスターがぽちゃん、と音を立てて海面に落ちてきた。それも一匹や二匹ではない。次々と、まるで小さな嵐のように、ロブスターが波間に降り注ぐ。


(え、なに!?なんだこれはっ?)


思わず声が漏れそうになった人魚は、降ってきたロブスターの数に目を疑った。まさか、こんなに大量にロブスターが降ってくるなんて。まるで海の中の祭りでも始まったかのような光景だ。


思わず海面に出ると、そこには船の上に立つ青年が空の箱を持ちながらなんとも言えない表情で立っていた。


「えっと、調べたら人魚はロブスター好きだってあってさ…」


青年は照れくさそうに頭を掻きながら言った。


「お礼に持ってきたんだ。海辺の市場で安かったから…つい…」


私は一瞬、言葉を失った。どこからどう説明すればいいのか。まさか、人間が人魚の好物を調べてこんな形で持ってくるなんて。あまりにも突拍子もない。


私は陸では声を発することができなかった。言葉を用いて意思の疎通を交わすことができない。それでも、目の前で青年が自分に向けて気持ちを示してくれるのは分かっていた。そしてその瞬間、人魚は心の中で何度も言葉を繰り返した。ありがとう。


しかし、言葉にはできず、ただ青年が降らせたロブスターたちを一匹一匹、ゆっくりと手に取る。そして、心の中で感謝の気持ちが溢れ、微かに笑みを浮かべる。


青年が何かを言いたいだろうことは分かっていたけれど、彼の目の前で言葉が出ないことが、あまりにも切なく、ちょっとした寂しさを感じさせる。


「…君が喜んでくれたら、良かった」


青年は再び困ったように照れ笑いを浮かべながら言った。その笑顔は、まるで海の向こうから差し込んだ陽光のように、どこか温かかった。


私は少しだけ顔をゆるめ、微笑んだ。


そして、私たちが友となるのに、時間はかからなかった。

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