飛べ
バッシュは男の話を聞きながら更なる厄介ごとに巻き込まれたと感じた。そもそも鱗が話すなんて正気じゃない。こんなことはありえない。
面倒なことはもうたくさんだと思いつつも、手の中で震える小瓶の哀しげな光を湛える鱗を見ると胸の中がギュッと掴まれるような気がした。
「いや、オレたちはそんなことしている時間は…」
「貴方が、この世に留まるほどの執着とは、なんなのですか?」
バッシュの言葉を遮るようにポトロが無理やり言葉を重ねた。
小瓶の中の鱗は儚げに瞬いた。その光のあまりの幻想的な輝きに夢の中なのではないかと思わせた。
『…この友人は空を飛びたがっていたのだ』
「空…!?」
『ああ、馬鹿げているだろう』
陸を歩く人間が鳥のように空を飛びたがるなど。男は、いや肉の記憶を宿した鱗はそう言いながら在りし日を懐かしむようだった。
ポトロは黙って周囲を見回した。彼の目は、無意識にその空間に散らばる物々に吸い寄せられるようだった。机の上に置かれた道具、擦り減った計算帳、廊下にかけられた布が風に揺れ、そしてどこかの隅に散乱する古びた部品。ポトロはそれらを見て、静かに息を呑んだ。
「…この場所は、空飛ぶ船のための工場だったんですね」
バッシュはポトロの言葉を理解しきれないまま、ただ立ち尽くす。だが、ポトロの目が少しずつその無駄に見える道具や部品に集中していくのを見て、バッシュは胸の中に一抹の不安を感じた。
「これらはすべて、その人が空を飛ぶための試みだ。すべて…失敗の跡だよ」
ポトロは手に取った部品を眺めながら、言った。その言葉にバッシュは息を呑む。
「人間が空を飛ぶなんて、できるわけがないだろ」
バッシュは改めてその思いを口に出すが、ポトロは静かに首を振った。
「…大抵、普通の人は僕たちの挑戦を無謀だと笑います。だが、この人は諦めなかった。」
ポトロは手元の工具を見つめながら、さらに続けた。
「空を飛ぶために、何度も何度も試行錯誤を繰り返して、それでも失敗し続けた。それでも、彼は死ぬまで…いや、死んだ後もその夢を追い続けたんだ」
バッシュはポトロの言葉を噛みしめる。ポトロがその一つ一つの道具や試作品を見て、どれだけの努力が込められているのかを感じ取っていることが伝わってきた。それは、バッシュが一度も見たことのない情熱だった。
「…彼は、ただ空を飛びたかった。それだけじゃない」
ポトロの声が少し低くなり、彼は一瞬、遠くを見つめた。
バッシュは何も言わず、その言葉を心の中で反芻する。空を飛ぶ夢。それがどれだけ破滅的で無駄に思えたとしても、それを追い続けた者がいるという現実に、胸の中で何かが揺れ動く。
『彼も…生きていた頃に同じようなことを言っていたよ』
彼と言われて、バッシュは何も言わずにただ黙ったまま椅子に座る男を見た。男の顔に生気はなく、土気色の肌とどんよりとした瞳を瞬きもせずにじっと正面を見つめていた。
バッシュは深くため息を吐きながら、手で顔を撫でた。ポトロの上気した顔を指の間から伺う。
「やめろやめろ…おまえ、なにを考えているんだ」
バッシュは再び問いかけたが、ポトロの目は鋭く、確信に満ちていた。
「空ですよ。バッシュさん。空。海がダメなら空から塔を目指しましょう」
ポトロの言葉はバッシュが想像し始めていた1番最悪な提案に辿り着いていた。人間が空を飛べるわけ…。バッシュの言葉などもう届かないのか、興奮に上気した顔のポトロはがっしりとバッシュの腕を掴んだ。
「バッシュさん。彼の作った空飛ぶ船を使って、塔まで飛びましょう」
その言葉に、バッシュは再び手の中の小瓶を握りしめる。小瓶の中の鱗が、まるで自分を試すかのように冷たく震えているような気がした。




