願い
やがて、2人を乗せた空を飛ばない船が静かに止まった。静寂が訪れる。その静けさが一層不気味さを際立たせていた。ギィイイ…バタン。急にドアが開き、閉まるような音が響き、バッシュとポトロは顔を見合わせた。
バッシュはそっと操縦席の扉を開けた。少しだけ空気が動き、蒸し暑い船の中の新鮮な空気が吹き込んだ。
バッシュがその扉をゆっくりと押し開け、隙間から外を覗く。目を細め、周囲の様子を慎重に確認する。「誰もいない…」とつぶやいたものの、その声にさえ慎重さが宿っていた。
ポトロもそっと身を乗り出し、周りを見回す。海の風が頬を撫で、どこか遠くからか波の音が聞こえてきた。それでも、不安は消えなかった。あの不気味な男が何を企んでいるのか、まだ見当がつかない。だが、その静けさが逆に不気味で、二人は一歩踏み出すことに躊躇していた。
「行くぞ」バッシュが低く言った。
ポトロはうなずき、慎重に足を踏み出した。
目の前に現れたのは、小屋と言うには大きすぎる、しかし倉庫とも言い難い奇妙な建物だった。その外観は古びており、荒れ果てた木材がむき出しで風雨にさらされてきた痕跡を感じさせる。かつてここが船の修理場だったのだろうか。今はその活気を感じることはなく、静寂だけが広がっていた。
空はすっかり夕闇に包まれ、薄暗くなり始めた。日が沈む寸前、遠くの海辺にわずかな赤みが残るだけで、あたりは静けさとともに冷え込んできていた。光が減ると、倉庫内の陰影が深まり、まるで古い時間が止まっているかのような不気味さが漂っている。屋根の隙間から漏れるわずかな光が、埃を舞い上げて暗い空間をかすかに照らしていた。
扉のすぐ横には、船の部品と思われる大きな木材の塊や、錆びた工具が雑然と放り込まれていた。船の一部のような破片や、何かの枠組みのようなものが床に無造作に転がっている。かつて手を加えられ、また修復されることを待つ船たちの残骸が、今では完全に忘れ去られたように見える。湿った木の匂いと、遠くから微かに響く波の音が、時折重く響くように耳に残った。
屋内に足を踏み入れると、床に敷き詰められた古い板材が軋む音が、静寂の中に響く。天井には、かつて大きな道具や木材を吊るしていたであろう、錆びた吊り具やロープがぶら下がっている。そのうち、木製の作業台の上には、船の部品や道具が無造作に積まれており、船員たちが使ったであろう工具がそのままの状態で残っている。船の形がわずかに残る大きな木枠が壁に立てかけられ、まるで時が止まったような光景が広がっていた。
夕闇が深まる中、ポトロはその空間に一歩踏み入れた。微かな光が窓の隙間から漏れ、時間の流れが不明瞭に感じられる。どこかで風が吹き、古い木がきしむ音が響く。だが、そこには誰もいない。まるで過去の仕事を待ち続けている船たちが、息を潜めているかのようだった。
ポトロが足を踏み入れると、微かな木のきしむ音が響き、その音だけが不安をかき立てる。しかし、ふとした瞬間に、背後から何かが動く気配がした。
バッシュが振り向くと、いつの間にか不気味な男がそこに現れていた。男は古びた椅子に腰掛けていた。椅子の木は長年の使用でひび割れ、背もたれも曲がっている。
男は静かに座っている。ゆっくりとした動きで、まるで空気の一部のように椅子に溶け込んでいた。目を開けているのか、瞼が下りているのかも分からない。男の姿は暗がりに溶け、まるで最初からそこにいたかのようだった。
その無表情な顔が、異様な静けさを引き立てる。男の動きは不自然で、どこか無機質な印象を与え、ポトロとバッシュの背筋を凍らせた。男が座っている椅子の木の軋む音さえ、静寂の中では異常に響くようだった。
男は動かなかった。無言のまま、ただ椅子に腰掛け、部屋の隅々にその影を落としていた。視線が合うことはないが、その存在がじわじわと二人を包み込むような気配を放っていた。時間が止まったように、その不自然な静けさが重く二人を圧倒していた。
「なぁ…アンタ…」
ーーー生きているのか?
バッシュは言葉を発してから、それが奇妙な質問だと気づく。だが、口をついて出てしまった。
男は静かに座ったままで、ほんの少しも動こうとしない。目の前にいるその存在は、まるで音のない、無機質な物体のように、ただただそこにあるだけだった。
「……」
男は何も答えなかった。目を閉じたまま、息をしている様子も、何かを感じ取っているわけでもない。ただ、黙って座り続けるだけだった。バッシュの言葉が、その男の身体を揺さぶることなく、ただ空気に消えていった。
バッシュはその反応に、言葉を失った。まるでこの男が生きているのか死んでいるのか、それさえもはっきりしない。どこか遠くの世界から見ているかのような、不気味な空気が二人を包み込んだ。
意思の伝達が不可能だと気づくのに、そう時間は掛からなかった。男はただ無表情で座り続け、まるでバッシュの存在すら無視しているかのようだ。その無言の空気に、バッシュは苛立ちを覚えた。
諦めたようにバッシュは頭を掻き、気を取り直そうとしたその時――
ポトロが突然、目を見開いてバッシュの荷物を指さした。
「バッシュさん、それ…!」
その声に、バッシュは目線を落とした。ポトロの視線の先には、バッシュの鞄の中から漏れ出す光があった。次第にその光は強くなり、眩しく輝きだす。まるで何かが目を覚ましたかのように、彼の視界を一瞬にして支配する。
その光は、「私」だったもの…かつての人魚だった時の鱗から放たれていた。まるで肉そのものが、記憶を呼び覚ますかのように、過去の感覚や影が濃くなっていく。温かな海の感触、命をつなぐ息吹、そして――その時の痛みすら、今も鮮明に感じ取れる。
それは単なる物理的な光ではない。まるで魂に直接語りかけてくるかのような力がその輝きに込められている。バッシュは思わず目を細め、その光に圧倒されながらも、心の奥底に広がる冷徹な記憶の断片に引き寄せられるような感覚を覚えた。
その鱗の輝きは、決して忘れることのできない何かを、静かに、しかし確かに伝えてきている――。
『まさか、再び出逢えるとは…』
バッシュの胸の中に言葉が溢れた。直接脳に語りかけてくるような不思議な音に、バッシュは驚いた。
『人の子よ。恐れることはない』
「いや、それはムリだろう…」
「貴方は生きているのですか?…死んでいるのですか?貴方は…何者なのですか?」
不思議な声の主にポトロが問う。
それは沈黙の後、重々しく答え始めた。
『私は、かつてこの海に生きていた人魚だ。しかしある日…そこにいる男と共に人間に襲われ、そして死んだ』
バッシュとポトロは一斉に男の方を見た。
椅子に座る男の目はどこか遠くを見つめるようになり、死後の記憶に引き戻されるかのようだった。ポトロもバッシュも、不思議な声の主の話にただ静かに耳を傾けるしかなかった。
『だが、私は、私の魂は天に召されなかった。死の直前、あまりにも強い執着が生まれ、それがケガレとなり、この世に残った』
その言葉が空気を震わせると、バッシュはふと手に持つ小瓶の感触を強く感じた。彼の手のひらで小瓶が震えていた。中に入っているのは、かつて人魚だった男の鱗だ。その鱗が微かに光り、まるで何かに反応しているかのように震えていた。
『その執着はケガレとなり共に死んだ友人に寄生し、今に至る。…その執着が肉の記憶を宿した私をここに呼び寄せ、こうしてお前たちに語りかけているのかもしれない』
バッシュは、震える小瓶をじっと見つめた。鱗から伝わるひんやりとした振動は、まるで男の死後の無念と執着がそのまま小瓶に宿り、今もなお動き続けているかのようだった。
『鱗となった私は肉の記憶にしか過ぎない』
男が言葉を紡ぐ間、バッシュは小瓶の震えを体に感じながらも、理解し始めた。死んだはずの男が、自らの執着が、今もなおこの世界に残り続けている。
鱗の中に宿る力が、かつての命の無念を物語っているようだった。
『私はあの時、死んでこの世から消えていなくなるはずだった。しかし、その執着は死後も消えることなく、この世に残り続け、ついには友人に宿った。そして、肉の記憶を頼りにこうしてお前たちに語りかけることができたのだ』
バッシュは不意に、小瓶の震えが強くなったように感じた。それは、男の言葉が直接的に、そして重く彼の心に響いている証のようだった。
『頼む。人の子よ。お願いだ。どうか友を、私の執着から解き放ってやって欲しい。』
男の声が、バッシュの心に響く。震える小瓶の中の鱗が、まるでその言葉に呼応するかのように揺れた。バッシュは息を呑んだ。
死んだはずの人魚の執着が、今もなお生きている。――その執着がケガレとなって友人に寄生し続け、苦しめている。その苦しみを解き放つためには、どうすれば良いのか。
少年らはわからないまま顔を見合わせた。ただ、鱗の切実な声が、耳を傾ける人間の心を引き裂くように響いた。




