不気味な男
不気味な男の後を追ってたどり着いた先は直線的でながらかな崖だった。
崖に近づくと目の前に広がるのは広大な離水海岸の景色だった。かつて海底が穏やかな傾斜を描き、今もその跡が波の打ち寄せる岸辺に残っている。白い砂浜と静かな海が、どこまでも広がる風景に溶け込んでいる。
しかし、その静けさを打破するかのように、視線を少し先へと移すと、海の彼方にひときわ高くそびえる塔の姿が目に入った。
塔は、まるでこの地を見守るかのように、遠くの空と一体化して浮かび上がっている。足元には古びた石段がいまにも崩れ落ちていきそうだった。
ここからは距離があるが、まるで手を伸ばせば届きそうなほど近く感じられた。
バッシュとポトロは身を隠せるほどの岩の後ろにそっと体を寄せて男の様子を伺った。
「バッシュさん、あれ…!」
見てください、と言いながらポトロは隠れているのも無意味なほど身を乗り出した。
不気味な男はぎこちない動作で大きな布を取り除いた。布の下から現れたのは左右に大きな帆を張った不恰好な船であった。
海で漕ぐにはおかしな位置に帆が張られている。その船の姿に、バッシュはまだ何かを理解できずに立ち尽くしていた。
「ポトロ、あれが何だって?」
バッシュがついに口を開いたが、ポトロはその答えを焦らせるように言った。
「あれは…失われた技術で作られた、空を飛ぶ船ですよ!」
空を飛ぶ…?
その突拍子もない言葉に、バッシュは呆然と口を開けたまま、崖の淵に立つ男を見つめていた。不気味な男は、夏の空に似合わない薄汚れた長袖と、あちこち破れたズボンを履いていた。その姿がますます異様に感じられた。
「僕も本物は見たことがありませんが、以前読んだ研究書にありました。左右に帆を張った流線型の船…」
本当にあるなんて…。ポトロは他にも早口に言ったがバッシュにはそのほとんどの意味がわからなかった。分かることは、ただ一つ。
船が、飛ぶわけがないだろう。
技術者肌の少年の空想には付き合っていられないとばかりにバッシュは呆れたようにため息を吐いた。
塔に行けなければ全ておしまいだ。
それか塔に行くまでの手段を考えているうちになんとかと言うジジイが死んでしまったらおしまい。
バッシュは頭の片隅で王国まで行く算段をし始めていた。するとポトロがさらに大きな声を出した。
ポトロの視線が男に向けられた瞬間、不気味な男は船を不自然な動作で押し出し、何かを始めた。その姿はまるで無理に船を動かそうとしているかのようだった。向かう先は崖。下にはもちろん、海が広がっている。
「ああ…!」
ポトロの目が大きく見開かれ、心臓が一気に高鳴った。
動力が、動力が全然足りない!あれでは…!
ポトロは何も考えずに、その瞬間に駆け出した。
バッシュが慌てて手を伸ばすが、それを上回る速さでポトロは地面を蹴った。足音が激しく響き、風が耳を掠めていく。
「…止まって! 止まってください〜っっ!!」
叫びながら駆け抜け、ポトロの声が耳に突き刺さるように響いた。背後からバッシュの足音も追いかけてくるが、ポトロのペースはそれを遥かに上回っていた。もはや隠れているのも無意味だと悟ったバッシュは、足元を必死に叩きつけながらポトロを追い詰める。
崖の縁に立つ男の手が船を押し続け、その動作はどこか機械的で不安定だ。しかし、ギリギリのところで船がようやく止まった。
ポトロが一歩踏み込み男のボロボロの衣服を在らん限りの力で掴んだその瞬間、崖の端から小石が音を立てて海へと落下する。
「ま、間に合った〜〜…」
ポトロは顔から汗を垂れ流しながら息継ぎもままならない。バッシュがたどり着くと不気味な男は感情の見えない表情を少年たちに向けていた。悔やんでいるような、悲しんでいるような、それでいてなにも話さないので余計に不気味さが増した。
「あ、あのそれ、教会が禁書にした【空飛ぶ船】ですよね…僕、それ読んだことがあって…いやぁ、本物にお目にかかれるなんて光栄です。あの本自体100年も前のものですから…あの…?」
早口に話すポトロの声などまるで届いていないかのように男は空を見つめた。やがて視線を戻すと虚なままぎこちない動きで空飛ぶ船を布で覆うと元来た道に向けて押し始めた。
「なんだ、コイツ…?耳が聞こえないのか?なぁ、聞こえて…」
返事くらいしろよ、とバッシュは声を掛けようと男の顔を覗き込んだ。バッシュの視線が男の瞳と交わった瞬間、バッシュの心臓が一瞬凍りついた。無機質な瞳がじっとこちらを見返し、まるでこの世界に存在していないかのように冷たく蠢いている。
その目の奥に宿るもの—それは死ではなく、もっと恐ろしいものだった。まるで生気を失った肉体に、何者かが取り憑いているかのような不穏さが漂っていた。
ふと、バッシュは過去に出会ったケガレのことを思い出す。あのときも、目の前に立つ者からは冷たい闇と無機的な空気が流れ込んでいた。自分の体が凍りつく感覚に襲われ、呼吸さえも止まるような恐怖を感じたのだ。ケガレの顔はまるで人形のように無表情で、目の奥にあるのはまるで消えかけた魂—いや、もはや人間ですらないものだった。
あの記憶が甦ると同時に、バッシュの背筋に冷たいものが走った。目の前の男もまた、そのケガレと同じ空気を放っている。視線を交わした瞬間、バッシュは確信した。男の目にはもう、生きている証が欠片も残っていない。
そして、その瞳からはかすかな瘴気が漂い始めた。まるで病んだ土から這い出したような腐臭、そして黒い煙のようなものが、周囲の空気をかき乱すかのように漂っていた。目の前の男が放つその禍々しい力に、バッシュは足を一歩引いた。いや、引かなければならないと本能が叫んでいた。
「コイツ…!」
ケガレだ。
ケガレが中にいる。コイツの中に。
バッシュは声を潜め、冷や汗をかく。あの時の感覚が再び蘇る。ケガレ—それは死者を超えてなお、なおもこの世に存在し続ける、絶望そのもののような存在だ。その力が、今、目の前の男に宿っていることを、バッシュははっきりと感じ取った。同時に顔面蒼白のポトロがバッシュの方をグイッと掴んだ。
「ばばばばばばばばっしゅさん…!」
バッシュはハッとして我に返った。ケガレの空虚な瞳に飲み込まれていたのだ。夏の暑さのせいではない汗を拭いながら、バッシュは乱暴に答えた。
「なんだよ、急に…」
「ももも問題が二点あります。一点はたぶんこ、この人の噂を聞いたことがあるのと…に、二点目は…」
「二点目は?」
「たぶん憲兵が来ました…」
「はっ?」
ポトロの指差す方を見れば、海岸林の隙間から帽子をかぶった大人の姿が見え隠れしていた。あんなに大きな声を出せば見つかるだろう。幸いなことに、二人の少年は海を背にして、空飛ぶ船の影に隠れているおかげで、こちらに向かってくる憲兵たちには見つかっていない。
「ど、どうするんだよ!? こんなときに!?」
「どどどうするって…」
ポトロは何かに気がついたのか、神妙な顔をしてから急に布をたくし上げ、その中にある飛行船の操縦席のドアをおもむろに開けた。
男はこちらのことなど見向きもしない。
「おまえ、まさか…」
「(こうするしか!ありません!)」
少年が二人入るにはいささか狭いその空間。不気味な男は何も言わないまま、緩慢な動作で押し続けていた。目的があるのか、ないのかそれすらもわからない。ただ今は、憲兵に見つかるよりは化け物と一緒にいる方がマシだと腹を括って、バッシュはポトロの体を押し寄せてその空間にぎゅっと入り込んだ。
「うわ、ちょっと狭っ! しかも臭っ!まるで腐ったイワシの缶詰みてぇだな、これ…」
「(う、うるさいですよ!)」
ポトロが顔を真っ赤にして、小さく怒鳴る。バッシュは思わず笑いそうになるが、すぐにまた緊張を取り戻し、足元の不安定さに目を凝らした。二人が肩を寄せ合って隠れている間に、空飛ぶ船の中の空気は妙にしんと静まり返っている。
◇◆◇◆
『私』は、静かにその場を見守っていた。少年らの間に漂う不安の影を感じ取ることができた。けれど、私には彼らの動揺に干渉する理由はない。ただ、目の前の状況がどんな結果を迎えるのか、興味深く観察するのみだ。
時折、ぽつりとした音が響く。気配が近づいてきた。空気が重く、ひときわ冷たい。だが、私はそれを感じても無視し続ける。ただただ静かに、そして冷徹に、動きを追う。
やがて憲兵たちが現れた。厳しい顔の制服を着た一団が林の隙間から顔を覗かせ、どこか疑念を抱いた様子で周囲を見渡す。彼らの視線は不気味な『男』に注がれていた。
「何かコイツ…気味が悪いな」
一人の憲兵が顔をしかめ、低く呟いた。
隣の憲兵が軽く肩をすくめる。
「コイツはオレのジィさんの時からこうして海まで来るんだよ。あの崖から海を見下ろして、沈める船を選んでるんだ」
1人の男が冗談とも本気とも取れる声色で言った。
「ははっ…まさかぁ」
その軽い笑い声が空気を少し和らげるが、それでも足元に感じる不安は消えない。もう一人の憲兵がじっと空飛ぶ船を見つめながら言った。
「…気持ち悪くて、これ以上近寄りたくないよなァ」
その言葉に、他の憲兵たちも頷きながら、少しづつ後退し始める。疑念と不安が交錯する中で、彼らは言葉少なにその場を去る決断を下したのだ。
私はその背中をただ冷徹に見守る。恐怖から足を動かす彼らを、私は何も感じずに見届けた。その姿が小さくなり、そして完全に消えていった後、私の周りに再び静寂が訪れた。
◇◆◇◆
大人の話し声がすぐそばまで聞こえたかと思うと、すぐにそれは遠ざかっていった。静寂が戻り、ポトロとバッシュは息を潜めたまま、空飛ぶ船の操縦席に身を沈める。だが、彼らにはもう逃げる余裕はなかった。眼前は布に覆われたまま、外の様子がまったくわからない。ただただ揺れる感覚だけが2人の体に伝わってくる。
不気味な男は何の言葉も発することなく、ただ船を押し続ける。その手が動くたび、船の軋みが響き、動きがわずかに加速する。ポトロは顔をしかめ、無意識に手を握りしめながら、小声で呟いた。
「(あのぅ…外は、いまどうなっているのでしょうか…)」
「(分かるわけないだろ)」
バッシュは低く答えた。その言葉には、不安と焦りがにじんでいた。
二人は言葉を交わすことなく、ただ不安げにその空間に身を委ねる。船は不気味に進み、どこに向かっているのかすら分からないまま、空を滑るように降りていった。
外の様子が全くわからないという閉塞感。二人はただ、その動きに合わせて体を揺らしながら、無言でその状況を受け入れた。何が待っているのか、何をしなければならないのかすら分からない。ただひたすらに、目の前の不安定さに身を任せていた。




