契約魔法
ソッロはゆっくりと手を上げ、金色の瞳を細めながら、静かに詠唱を始めた。空気が張り詰め、部屋全体に不可思議な力が満ちていく。彼が発する言葉の一つ一つが重く、響き渡るように壁へ、床へと染み込んでいった。
「――古き契約の証人たちよ、この場にその力を顕現せよ」
その声に呼応するように、彼の周囲の空間が淡く揺らめき、青白い光の筋が浮かび上がった。細かく入り組んだ魔法陣が床に浮かび上がり、壁にも無数の符号が輝きながら形作られていく。ソッロがさらに声を高めると、光は次第に強まり、まるで生き物のように蠢き始めた。
「時の流れを遡り、運命の鎖を編み直せ。ここに交わる契約は、途切れぬ縛りとなり、魂を縛るものとせよ」
一瞬、部屋の中に風が巻き起こりバッシュとヴァルの衣服が揺れた。ソッロは冷然とした表情で、両手を広げ、さらに強い声で宣言した。
「我が言葉に応えよ!神明よ!
掟の名のもとに、この契約に宿る運命の力を、然るべき形に結び給え!」
詠唱が続くとともに、ソッロの指先から紡がれた光が、天井から床までを覆い尽くすほどに拡がった。その光はまるで星空のように煌めき、無数の小さな光の粒が周囲を漂う。まるで、目の前の空間に新たな世界が生まれたかのようだった。
最後の言葉が発せられた瞬間、契約の光は一瞬、眩いほどに輝き、次の瞬間には静かに消え去った。その場にはただ、一片の冷たい静寂だけが残された。
ソッロは再び冷ややかな視線でバッシュを見つめ、契約の完了を告げる。
「これで契約は成された。今この瞬間から、お前の魂はこの力に刻まれ、解除されるまで逃れることはできない」
その言葉の重さに、バッシュは無意識に息を飲んだ。
ソッロの厳粛な契約の儀式が終わり、部屋の重い空気が徐々に元に戻ると、ヴァルは肩をすくめ、少し疲れたように深く息を吐いた。契約が無事に結ばれたことに安堵しつつも、すぐに次のことを考えて一瞬だけ表情を曇らせた。
バッシュは消えた魔法の行方を探すのに夢中で気が付かず、狐男だけがヴァルの挙動に静かに見守っていた。その視線に気がついたヴァルが顔を上げて答えた。
「ありがとう、ソッロ。本当に助かった」
「…約束通りの対価をもらうさ。それに、もう二度とこの手の簡単な仕事はごめんだね」と、ソッロは無表情のまま肩をすくめた。
ヴァルは少し苦笑いし、ソッロに謝礼を渡した。財布代わりの小袋を持ったままヴァルはバッシュの方へ振り向いた。
「さて、バッシュ、悪いんだけど市場で買い物してきてくれないか?実は私、あまりそういうの得意じゃなくて……」
バッシュはしばらく黙ってヴァルを見つめ、その後、少し呆れたように言った。
「だろうな」
ヴァルは苦笑しながら肩をすくめた。
「ほら、誰かがやらなきゃならないから。お願い、バッシュ」
「オレに任せとけって。でも、なんで毎回オレに頼むんだよ。料理だって…」
お前がやれよ、と言いかけてバッシュはヴァルと初めて会った時に食べさせられたあの悲惨な食事を思い出して話すのをやめた。
ヴァルはまるで他人事のように目を逸らしながら言った。
「それは……な、なんていうか、料理って、難しいだろ?それに、私は、ええと、味覚が鈍いんだ。だから、バッシュのほうが絶対うまくできると思う」
バッシュはその言葉に苦笑いを浮かべ、メモを受け取ると、ヴァルをからかうように言った。
「まあ、分かったよ」
ヴァルは自分の鞄から小さなメモ用紙を取り出し、市場まで行き方を書きながら説明を続けた。
バッシュは手渡されたメモを読みながらうなずき、片手をヴァルの方に差し出した。なにか分からないままヴァルはわずかに首を傾けた。
「……あと金だよ」
それを聞くとヴァルは慌てて手の中の小袋をバッシュに渡した。
「あ、もちろん。これくらいあれば大丈夫かな」
「ほんっとにお前、生活力ゼロだな」
バッシュは呆れ顔でメモをポケットに仕舞い、「よし、行ってくるよ。でも、今度は頼むな、マジで」と言って部屋を出て行った。
ヴァルはそれを見送ると、再び静かに深呼吸をした。彼にとっては毎日のことだが、こうしてバッシュに頼ることが日常になってしまっているのだ。ヴァルはバッシュの思いの外小さな背中を見つめながらふっと笑った。
◇◆◇◆
バッシュを見送ったヴァルがソッロの家へと戻ると、すでにソッロは入口で待ち構えていた。琥珀色の瞳がヴァルの一挙手一投足を見逃すまいとするように、ひそかにその動向を追っている。
「…彼女のところに行くのか」
ソッロはいつものように淡々とした無表情を保ち、冷静な口調でそう問いかける。しかし、わずかに間が空くたびにその声音には微かなためらいが漂い、普段の彼らしからぬ慎重さがにじんでいた。ソッロはいつもと変わらぬ顔をしているものの、どこか隠しきれない心配が表情の奥に見え隠れしている。
ヴァルはその心配に気づいているのかいないのか、静かにうなずき、やがてソッロから目をそらし、家の奥にある扉へと歩を進めた。
その扉は、見た目はただの古びた木製のものでありながら、ソッロが魔法によって封じた契約の力が宿る特別な場所だ。ヴァルの手が冷たい金具に触れると、どこか重厚な空気が漂い始める。
「…あまり無理するなよ」と、ソッロが声を落として言葉を紡いだが、その言葉はほとんどヴァルの耳に届かぬよう、かすかなものだった。だが、その一言にソッロの本心が垣間見える。誰にも心を寄せないかに見える彼も、ヴァルの中で止まってしまった時と、その理由を知っているからこそ、彼女のもとに向かうヴァルを案じているのだ。
ヴァルは振り返ることなく、静かに扉を開き、暗闇の中へと進んでいった。ソッロはその背中を見つめ、言い知れぬ不安を感じながらもそっと視線を伏せた。
◇◆◇◆
バッシュはメモを見つめながら、ふとヴァルのことを考えた。
(アイツ、どうしてこんなに生活力がないんだろう?)
ヴァルは戦いでは頼りにできるが、日常のことに関してはまるでダメだ。買い物一つ取っても、何をどれだけ買えばいいのか分かっていないし、料理に至っては全く酷いものが出来上がる。
バッシュは苦笑しながら肩をすくめる。
なぜこうも不器用なのか、全く理解できない。こんなことを考えていると、つい冷たい目線で見てしまいそうになるが、どうしても助けてやらなきゃいけないと思う自分がいる。
(でも、一人の時はどうしてたんだろう?)
バッシュはその疑問にしばらく悩んだ。戦闘のための訓練や魔法の研究ばかりに時間を費やしていたヴァルが、一体どうやって生活していたのか。食事はどうしていたのか、衣服はどうしていたのか…。
考えれば考えるほど謎が深まる。
もしかしたら、以前は誰かに世話をされていたのだろうか?それとも… 何もしていなかったのだろうか?そのすべてがバッシュには思い浮かばなかった。
そういえば…と、バッシュはふと考えた。
(オレ、ヴァルが番人の葬儀屋だってことと、生活力がないってこと以外、何も知らないんだよな)
一緒に旅をしているのに、意外と知らないことばかりだ。それはそれでいいと思っていたが、なんとなく気になってしまう。
ふと、バッシュの脳裏にある記憶がよみがえる。それは、ヴァルが一度、手料理を振る舞ってくれた時のことだった。
…あれは、最悪だったな
ヴァルが自信満々で出した料理は一目見て絶望的だと分かった。ひと口食べた瞬間、バッシュは唾液すらも口の中で凍りつくような感覚に襲われた。スパイスの量が明らかに多すぎて、舌が痺れるような味だった。食材の選び方から調理法に至るまで、まるで何も考えていないかのような代物だった。バッシュは必死に笑顔を作りながら、無理に食べたが、胃が痛くて堪らなかった。
あれは、ひどかったな…。バッシュは、思わず顔をしかめた。あれが一体どうして「料理」と呼ばれるのか、今でも理解できない。
(まぁ、あいつも一人だったら、ああなるのも無理はないのか。)
バッシュは小さくため息をつきながらも、その記憶を心の中で片付ける。どこかで「もう少しまともな食事を作れたらいいのに」と思う自分がいたが、それでもヴァルがどうしようもないのもまた事実だ。
とりあえず、今日は買い物に行けばなんとかなる。あいつの破綻した生活力には期待しないで、オレがなんとかするしかない。
バッシュは再び市場までのメモを確認し、動き出す準備を整えた。




