キツネ男
『ソイツ』は見る人間に傲岸不遜な印象を与えた。遠目にも分かるノリの効いた上等な白いシャツを着たソイツは切れ長の細い目をさらに細けさせ、金色に光る瞳でヴァルとバッシュを捕えた。
ソイツは1人掛けのソファにたっぷりと背もたれに寄りかかり、豊かに実ったぶどうを一房贅沢に頬張っているところだった。
室内は豪奢な調度品に溢れ、いささか成金趣味的なシャンデリアがヴァルとバッシュの開けた扉から溢れた紫外線にキラリと光った。
…というか、そもそも『ソイツ』は人間ではない。
「ソッロ。遅くなってすまない」
「ああ、ヴァルか。遅いぞ。遅すぎてぶどうがワインになっちまうかと思ったゾ」
ペロリと平らげた口元に鋭い犬歯が光るのをバッシュは見逃さなかった。
狐だ。
目の前で大人の人間ほどの大きさの狐が脚を組んでソファに座っている。
ソッロと呼ばれた狐男は特徴的な赤色の毛が彼の存在感を際立たせていた。その毛はまるで炎のように輝き、見る者の目を引きつける。彼の顔は太々しい印象を与え、傲岸不遜な態度をさらに強調していた。大きな耳は高く立ち上がり、敏感に周囲の動きを察知する。
「そいつが手紙に書いてあった契約者か?」
ソッロの目が自分を値踏みしたように見えてバッシュは不快感を覚えた。ソファから立ち上がった狐男はふむふむ、とバッシュの周囲をぐるりと回った。顎に添えた人間よりもより鋭く長い爪先を見てバッシュは抗議の言葉をごくりと飲み込んだ。
彼の口元には不敵な笑みが浮かび、時折見せるその表情は、彼の自信と計算高さを物語っていた。
「おや、失敬。爪を切っておくべきだったかな」
狐男は揶揄うような素振りで指先をパタパタと動かしたかと思うと、近くのテーブルに置かれた果物の盛られた皿から器用にぶどうを一粒を爪の間で摘んで口の中に放り投げた。
「爪が長い方がなにかと便利でね」
「ソッロ。あまり怖がらせないでくれ。バッシュは獣人を見たのは初めてだったのか?」
「あ、ああ…初めてだ…」
おやまぁ。ソッロはわざとらしく驚き「どんな田舎から来たんだ」と、意地悪く言った。
「まぁ、無理もない。オレたちのような獣人も最近では数が減っていく一方さ」
さて、世間話をしに来たワケじゃないんだろう、とソッロは2人を相向かいの長掛けソファを勧めた。
進められるがままに上等な生地の貼られたソファに座る。恐る恐る体重を乗せるのムギュッと心地の良い音がした。
「しかし、ずいぶん若いじゃないか」
おまえ、いくつなんだ?という問いにバッシュは一瞬口籠もり、本来の年齢に少し足して答えた。ソッロは怪しむように目を細め、腕を組んだ。
「ヴァル、お前ちゃんと“契約”の説明はしたのか?」
「ぇえっと…簡単にしたと思ったけど」
ソッロはバッシュの方を見たが、バッシュはそれほど詳しくは聞いていなかったので震える子犬の如くぶるぶると首を振った。
お前なぁ、とソッロは呆れた声を出した。
「オマエはいつも仕事はちゃんとするのに、そういうところがいつも抜けているぞ。ヴァル=キュリア」
「ごめん、ソッロ。気を付けてはいるんだけれど…」
契約前に説明してくれるだろう?と、ヴァルはソッロを見つめた。
「ふん。まぁ、説明するのもオレ様の仕事の範疇さ」
狐男はその細い口元から盛大なため息を吐いてから一息に言葉を吐き出した。
「さて、雇用契約魔法って言っても、単なる契約書にサインするんじゃないんだ。これはヴァルと小僧、双方の約束ごとで、魔法の力も絡んでくる。違反をすればただごとじゃ済まない。魔法でお前の体や心に何かしらの影響が出る可能性があるってことだ」
違反…と、バッシュは引っかかった言葉を呟いたが質問は後だというふうにソッロは言葉を畳み掛けた。
「契約を守るってのは、まぁ言ってみりゃお前の自由を守るってことだ。逆に言うと、この契約を守る限り、ヴァルはお前のことを守る。雇用主だからな。何より無駄なトラブルに巻き込まれることもない。それがこの契約の一番のポイントだ。」
ここまでで質問は?と、ソッロは赤毛の頭を掻きながら言った。どこから質問すれば良いのか分からないバッシュは瞳をぐるりと回してようやく言葉を紡いだ。
「その…違反って具体的には?」
「ああ、そうだな。ヴァルの求める仕事をしなかったり、勝手に仕事を放棄して逃げちまったりだな」
「それは…そうしたらどうなるの?」
魔法の力が絡むという言葉にバッシュはどきどきした。
「こう言ってはなんだがこの契約魔法は強くない。せいぜい小僧の居場所がヴァルに告知されるくらいだ」
バッシュはどういう仕組みでそうなるのだろうかと考えたが、おそらく説明されても理解できないだろうから質問することはやめた。
「まぁ、面倒に思うかもしれないけど、これだけは覚えておけ。契約を守るってのは、最終的にお前自身のためにもなるってことだよ」
「信じていいんだろうな?」と、バッシュは疑うように2人の大人を交互に睨みつけた。
ソッロはオマエみたいな汚い小僧を騙して一体何の得があるんだと、呆れながら言った。
「まぁ、ただ逃げ出すだけで命を取られるわけじゃないさ」と、ソッロはバッシュに柔らかく笑いかけた。
「けれど、何かしらのペナルティはある。君がこの契約を破った瞬間、ヴァルにお前の居場所が伝わる呪いが発動する。どこに逃げても、ヴァルにはお前が見えるんだ」
バッシュは一瞬言葉を失い、戸惑いの表情を浮かべた。
「居場所が…? それって…」
「つまりだ」と、ソッロは指先で契約書をトントンと叩いた。
「お前が逃げ出そうとするなら、ヴァルはすぐに追いかけてくる。それに、お前の気配や動向も察知できるようになる。逃げられると思うなよ?」
その言葉にバッシュは息を呑み、ヴァルの方を見た。ヴァルは穏やかな目でバッシュを見返し、安心させるように微笑んだ。
「心配しなくていいよ、バッシュ。これは王国までの契約で、目的地に辿り着けば魔法は解除されるんだ」
バッシュはその言葉に少し気を取り直し、深く頷いた。
ソッロは満足げに頷き、契約書を片手に立ち上がった。「さて、これでお前たちは正式に主従の“契約”を結んだ。どんなことがあっても、互いを守り合う覚悟が必要だぞ」
ソッロは契約書を指で軽く弾きながら、にやりと笑った。
「それから、もう一つ注意点がある。バッシュ、お前だけがペナルティを受けるわけじゃない。この“契約”は、雇用主であるヴァルにも厳しい条件を課しているんだ」
「ヴァルに?」
バッシュは意外そうに目を瞬かせ、ヴァルの方を見た。ソッロは薄笑いを浮かべながら続けた。
「そうだ。もしヴァルが小僧に約束の給金を払わなかったり、生活を無視してお前に労働だけを求めるようなことがあれば…ヴァルにもペナルティが与えられる」
「ヴァルにペナルティ?」
「そう。契約魔法は労働者を守るためのものだからな。どんなに動こうとしてもその土地から離れられなくなるのさ。それに、生活の乱れがあまりにひどければ、お前の方に支払うべき金額が倍になることもある」
ヴァルは顔をしかめながら肩をすくめ、「それは困るなぁ」と苦笑した。
「そうならないように気をつけるんだな、ヴァル=キュリア。お前のだらしなさも魔法には通用しないからな」とソッロは冷ややかに指摘した。
バッシュは小さく吹き出してしまったが、ヴァルは照れたように頭をかきながら、「わかってるよ。ちゃんとするさ」と約束した。
ソッロは二人のやり取りを見守り、少しだけ柔らかい表情でうなずいた。
「さて、じゃあちゃっちゃとはじめますか」
ソッロはその長い腕を伸ばし、ソファから立ち上がった。




