森の奥から現れたのは
夜の帳が降りた森の中は静けさに包まれていた。あるいはこれから起こるなにかを予感して研ぎ澄ますかのような静寂。
その中でパチッパチッチッと不規則に火が音を立て燃えた。
白髪の老人・シュヴァイツァーは燃える焚き火を木の棒で突く。愛用の懐中時計では半日ほど経過していたが、近くで死んだように眠る旧友とそのツレは一向に目覚める気配を見せなかった。
待っているというのも殊の外疲れるもので、老人は固まった体をほぐすように空に向かって両腕を伸ばした。
お互い老体に無茶をさせるものでは無いな、と手紙をよこしたまま行方不明の友人に向かって無言で言った。
視線を横に移す。
シュヴァイツァーと共に行動する言葉を失った少女キランもそばでじっと焚き火を見つめていた。
ここには連れてくるべきではなかったのかもしれない…今更考えたところでどうなるものでも無いし、そもそも他に預けられるような信頼できる人間は近くにいなかった。
「キラン、寒くは無いか?」
尋ねられた少女はふるふると首を縦に振って寒く無いと意思表示した。奴隷商人から買い取り連れ歩くようになってだいぶ経つが、キランが年齢相応のワガママさをシュヴァイツァーに見せたことは一度もなかった。それが幾分寂しく思いながらも老人は笑ってそうかと答えた。
遠すぎず近すぎないところでは旧友とそのツレの少年の飼っている犬が欠伸をしていた。
犬にしてはずいぶん大きな身体だな。なにかの混じりものが入っているのだろうか…。
その思考を読み取ったかのように熊のように大きな黒い犬がシュヴァイツァーを見つめた。黒曜石のような瞳がシュヴァイツァーの心を見透かすように射抜く。
なんだ…。
あの少年は世話をする羽目になった、と言っていた。だから進んで飼っている訳ではないのだろう。道すがらたまたま拾ったのだろうか---もし、この犬が今この場で襲いかかってきたら?
夜の森は人間の不安にそっと入り込んで耳元で囁く。老人の不安の気配を敏感に感じ取ったように黒い犬はすくっと急に立ち上がった。じっとシュヴァイツァーの方を見て動かない。
シュヴァイツァーは不安に駆られてコートの内ポケットへと手を伸ばした。
「---ありゃあ…ダイアウルフじゃねぇか」
こんな山から離れた場所で珍しい。普通は寒山部にしかいねぇのに。生き残りか。毛皮を売ればさぞ良い酒が飲めるだろう。
突然森の奥から現れた男は物騒な言葉を口走った。背後から現れた人間にシュヴァイツァーもキランも呆気に取られていたが、すぐにキランを自分の背中の後ろへと隠した。
「…急に現れて挨拶もなしに、物騒なことをいうお人だな」
「ははっ。こんばんは、ごきげんようワタクシ何処ぞから参りした何某とモウシマス」
次は茶でも飲めばいいのか?
男は軽口を言いながらヌゥッと木々の間を抜けて出てきた…その手には鞘から抜かれたロングソードが握られている。焚き火の灯りを受けて鈍く光るその刀身にウゥッと黒犬のエゾフは唸り声を上げた。男の隠しもしない殺意が空気をざわめつかせた。
「…キラン、ヴァルの馬の近くに行くんだ」
シュヴァイツァーが早く、と声を掛けキランが駆け出すと現れた狼藉者は歩きながら再び軽快な声で言った。
「オイオイ…なにもみさかえなく殺そうって訳じゃねよ。そこで転がっている二人組を始末出ればそれでいいのさ。ついでにそのダイアウルフもな」
オレはそれで金が貰える。アンタ達は助かる。それでいいじゃねぇか---。
その言葉を聞く前にシュヴァイツァーはコートの内ポケットからナイフを手に取った。それは可能な限り軽量化され、かつ空気の抵抗を削ぐように薄くされており、いわば投げるために改良されたスローイングナイフであった。
それに応えるかのように牙を剥き出したまま唸るエゾフがシュヴァイツァーの隣へと立つ。
先ほどの不安が申し訳なくほどこの時はこの熊のような黒犬が頼もしく感じた。
チッ。あーあめんどくせぇな。
「誰の差金だ…と、聞いたところで答えそうにもないな」
「まぁな」
これでも一応プロなんでな、と狼藉者は言うと剣を構えた。剣の構えるその姿からこの狼藉者が場当たり的に強盗や犯罪を犯すタイプではないとシュヴァイツァーはすぐに理解した。脅しなどではなく完全に人間を殺すことを目的として磨かれた殺意を真正面から受けてシュヴァイツァーはぶるりと体を震わせた。
「…やめておけ。ジジイじゃこのオレとでは勝ち目が無いぞ」
「どうだろうな。お前もそこそこのジジイに見えるぞ」
ははっ、言うな。嫌いじゃ無いぞ、と狼藉者は軽快に笑った。そしてこう言い放った。
「お互いジジイだ。仲良く殺し合おう」




