単なるエドワルド
ああ…ここは…どこだろう。
オレは…オレの体はどうしちまったんだろうか。
目の中が黒い。
絶え間なく続く暗闇が目の中に溢れる。溢れた常闇が頬を伝い、顎を撫でぽたりぽたりと地面に落ちる。
目玉が溢れてしまう。滴る常闇を手で掬おうとしては、無常にも流れ出てしまった。
自分の体が闇と溶け合う。
それは存外、心地の良い感覚だった。
「…ッシュ。バッシュ」
起きるんだ。
その一言にバッシュはハッと目を覚ました。周囲を濃い霧が立ち込める。視点が定まるとヴァルの顔がようやく見えた。どのくらい寝ていたのだろうか。
「ここは…」
医者のジジイとあの女の子はどこに行ったのだろう。バッシュは寝ぼけた頭で考えた。2人がいない。それにトロントもエゾフも。
みんなで焚き火を囲んでいた場所と全く同じ情景であったが、先ほどまでいたはずの人間や動物がいない。寸分違わぬ“ここ”が“エドワルド三世の夢の国”だとバッシュは気がついて、ぶるりと体を震わせた。
自分の目玉があることを無意識に確認したバッシュの視界の中でヴァルが周囲を窺っていた。
それにしても変な夢だった。
内容という内容などない。だから夢だと分かったが、まるで自分の体が溶けてしまうような感覚はバッシュの目玉の中に残っているようだった。
「どうかしたか?」
様子のおかしいバッシュに気がついたヴァルが尋ねる。バッシュは言おうかどうしようか迷い結局、何でもないと答えた。
「ーー…おや、こんなところに人がいるぞ」
少年よ。霧の中で道に迷ったのかね?と、バッシュにとっては聞き覚えのある男の低い声が耳を貫いた。
後ろを振り返ると背の高い狩猟帽子を被ったその男は、肩にハンティング銃をぶら下げていた。
「お、おまえは…!」
もう1人の聞き覚えのある青年の声がバッシュの心臓をどきりと跳ね上げさせた。狩猟帽子の男の前を耳の長いエルフが、すでに腰に付けたダガーナイフの柄に指をかけていた。
ーーー殺される!
バッシュが叫ぶ前にヴァルが間に入った。
「ピピ、お前はどうしていつもそう交戦的なのだ。少年が怖がっているではないか」
「しかし兄上様、こいつらは…」
「この濃霧で道に迷いまして、助かりました」
ヴァルはエルフへの警戒をそのままに、すかさず会話を捩じ込んだ。エルフはキッと睨みつけたがバッシュが怯えただけでヴァルには効かなかった。
「旅人よ、訪れたのは初めてか?このきりはマケドニアの山脈と王国領の山々に囲まれたこの盆地では数少ない名物だ」
狩猟帽子の男ーーーエドワルド三世は愛想良く答えた。生来の気質なのだろうか。貴族というには少々軽い口振に、バッシュは以前出会ったあの老辺境伯の時のようには緊張しなかった。
「もう夜も更けてる頃だ。我々の城がすぐそこにある。良かったら旅の話でも聞かせてはくれないか?」
「兄上様!」
「良いではないか。ネモフィラが気の病を起こしてからはなかなか領外に出かけることもなくなった。外の話が聞きたいのだ。それに、彼らは見たところ武器も持たない旅人と少年だ」
エルフ族でも勇猛と知られるピピ護衛長が少年を怖がるのか?と、揶揄われてピピと呼ばれたエルフは怒りに長い耳を赤くした。
「そもそも兄上様の護衛長はウォルトのはずですが」
「おお、そうだな。そういえば…ウォルトはどこへ行ったのだ?姿が見えんな」
「…ウォルトは腹を壊して先に帰りました」
ははっ。奴め、あんなに大きな腹をしていてまだ食べ足りなかったのか。エドワルド三世は涙が出るほど笑った。
「私は正確にはネモフィラ姉様の護衛ですから…」
姉上に聞かなくてはなりません。ピピと呼ばれるエルフはキッパリと言い放った。まぁそれもそうだな、とエドワルドは鼻の下の小さなヒゲを摘んだ。
「そうだな…しかし、ここに迷い人を置いて行くのも気が引けよう。妻に許しを請わなくてはならないが、どうだろうか。城まで案内しよう」
「ご一緒させていただきたく存じます」
それにお許しをいただけるなら彼がガラリア地方の笛を演奏してご覧いれましょう、とヴァルはバッシュの顔を見ることなく言った。バッシュはギョッとしてヴァルの横顔を見たが、片目でウィンクされるだけだった。
「ほうガラリア地方とは!これは随分遠くから来たのだな」
エドワルドは木に括り付けていた馬の手綱を解いていた。エルフは深くため息を吐きながら、ダガーナイフの柄から手を離した。どうやら諦めたらしかったが、バッシュの方を睨みつけるのは忘れてはいなかった。
あの時この2人はヴァルに飲ませる気付け薬を取りに行ったのではなかっただろうか?
エルフの方は助ける気などまるでなかったが、少なくともこの狩猟帽子の方はそんな風に見えなかった。取りに行く間に下賤のもののことなどどうでも良くなってしまったのだろうか。
ーーーそれならどうしてまたここにいるんだろうか?
バッシュはふと違和感を覚えたが、それもエルフが腰に付けた黒い鋭利なナイフを見ると忘れてしまった。
ヴァルは様子を伺いながら、馬の準備のできたエドワルドに声を掛けた。
「失礼ながら大変高貴な身分の方とお見受け致しますが…」
「ああ、失礼!紹介が遅れたな」
狩猟帽子の男は鼻の下の小さなヒゲを指先で整え、コホンと喉を鳴らした。
「私はエドワルド三世・アレクサンドル・オブ・マケドニア」
いまは王位継承権を放棄したので、単なるエドワルドと呼んでくれたまえとその男はヴァルに握手を求めながら軽快に言った。




