眠りの番人
「バッシュ!ああ…無事でよかった…」
息を切らすヴァルを見るとバッシュは悪いことをしたような気持ちになった。起きてすぐに走ったせいなのか、ヴァルは珍しく肩で息をしていた。
それともこの濃い霧の中、バッシュを探して方々探し回ったのだろうか。バッシュはあの体格の良い商人の言ったことを思い出した。
「…急にいなくなったりしてごめん」
「いや、私の方こそごめん。君の話を無視するようなことをして…」
ヴァルは息を整えるとバッシュを正面から見た。男のような女のような中性的なヴァルの顔
は今日は酷く疲れていた。ヴァルを象徴する黒衣のマントは霧の中で湿気を含んだようにずっしりと重たそうに見えた。
「バッシュ、君のことを軽視してしまった。君の身の危険も考えずに行動していた」
ヴァルは再度、ごめんなさいと謝った。
ヴァルが幾つなのか知らないが、おそらく自分より年上の人間にこうも丁寧に謝られてバッシュは居心地の悪さを感じた。
もう、いいよとバッシュは頬を指先で搔きながら言った。分かってもらえたのならそれで、バッシュの気持ちは幾分和らいだ。
「この森に人喰い池があるのを知ってたのか?」
「ああ、ここには何度か訪れたことがあったから知っていたよ。…言い訳するなら、自分がここまで不覚にも眠ってしまうとは思わなかったんだ。君の保護者として恥ずかしい」
「別に保護者なんて頼んでないけどな!」
バッシュはなるべく明るく言ったが、拒絶の意味に捉えたヴァルはショックのあまり呼吸をするのも忘れてその場に立ち尽くした。意外とこの葬儀屋は気にするタチなのかもしれない。
「オレたちコヨウカンケイだろ!なんでも言ってくれよ!」
バッシュは少し前に知った言葉を繰り出しながらヴァルの項垂れる背中をバシッと叩いた。言葉の意味を正しく理解していなかったが、確かに2人は友人関係ではなく、保護者と被保護者でもなかった。
まだ給金を払っていない雇用主と青年にさえ満たない未熟な少年音楽士だった。
ーーー
ヴァルとバッシュが元いた野営地まで戻ると、そこでは老医師のシュヴァイツァーと少女キランが火の消えていた焚き火を起こして囲んでいた。
「仲直りできたか?」
「おかげさまで」
それなら良かった。
老医師はヴァルとバッシュを交互に見てそれからニコリと笑った。自己紹介がまだだったなと言って老医師はアルバート・シュヴァイツァーと名乗った。それから金髪の少女をキランと紹介した。
「彼女は色々な理由で話せないんだ。耳は聞こえているから意思の疎通はできる」
「ふーん…」
「……」
同じ歳くらいだろうか。バッシュは自分とそう変わらない少女に視線を向け、そして「髪きれいだな」と言葉を投げかけた。
三つ編み、自分で編んでるんだよな?器用だなーと、バッシュは何気なしに思ったことをそのまま口に出した。
孤児教会では小さい子供たちの髪を編んであげることもあったので、バッシュは長い女の子の髪に慣れていた。少女の方は…バッシュにそう言われると耳まで赤く染め上げて老医師の後ろに隠れてしまった。
「ここに着いた時に受け取った炎の手紙にはこの地を統治するエドワルド三世の奥方からだった」
「エドワルド三世の奥方って…」
「ああ、エルフだよ」
いや、そんなまさか…。
シュヴァイツァー医師は顎に触れてじっと焚き火を見つめながらなにか考えていた。
「エドワルド三世は100年以上前の人物だぞ?エルフならわかるが…人間がそんなに生きていられるのか?」
「…そいつなら弓を背負ったエルフと一緒にいたぞ」
バッシュはポツリと呟いた。子供の戯言。
夢か現か分からないのは本人も同じだった。ただ背中に当てられた鋭いナイフの感触をバッシュは覚えていた。
「本当か…?夢でも見ていて…」
「夢なんかじゃない!オレは本当に見たんだ!
そいつらが馬に乗って霧の中から現れた!狩猟帽子を被った男はエドワルドなんとかと言って…それにエルフだ!見たこともない耳の長いやつがいた!」
そいつがオレにナイフを当ててきたんだ!
バッシュの大きな声に、キランがびくりと小さな体をわずかに揺らした。
「嘘ではないよ…シュヴァイツァー。
バッシュは彼らに会ったんだ」
私がそうなるべきだったんだ。ヴァルは顔に後悔の泥を塗ったかのように苦い顔をした。
「ここはおそらく、この土地の番人となったエドワルド三世が見ている夢の中の国なんだ」




