妹からの手紙
海港都市ベッロハイズ商業特区にある広大な邸宅の一室。
重厚な木製の机の前に座るマグヌス・ルクレティアとアーク司祭。机の上には妹のリリアから届いた手紙が広げられ、二人の視線がそれに集まる。
マグヌスはその場にいるだけで、空気を支配しているかのような存在感を放っていた。白い髭と豊かな白髪が、年齢を感じさせると同時に、彼の重厚な人格を物語っている。髪は長く、後ろで整えられており、まるで歴戦の武人のような威厳を漂わせていた。彼の眼差しは鋭く、灰色がかった瞳が静かにアーク司祭を見据えている。その眼光には、年齢に反して冷徹で鋭い知性が宿っており、周囲の動きや空気の変化を即座に察知しているかのようだ。
アーク司祭は手紙を手に取り、軽く眉をひそめながらも、どこか余裕のある表情を浮かべていた。だが、その表情に浮かぶ微かな不安が、マグヌスの冷徹な視線によってほんの一瞬、明確に浮かび上がった。
マグヌスの姿勢はまっすぐで、無駄な動きは一切ない。彼が座っているだけで、その空間が引き締まるような気配が漂う。深い青色のローブで、金の刺繍が施されているが、派手さを抑えたデザインが彼の品位を際立たせていた。その存在自体が、まるで時間を超越したかのような静寂を作り出し、どこか神聖な空気をまとっている。
「ふむ、こちらがリリア殿からの手紙ですか…」と、手紙の内容を確認したアーク司祭は少し声を弾ませるように言う。その声は、司祭らしからぬ軽薄さを含んでいたが、マグヌスに対しては敬意を忘れないように、やや抑えめに話している。
「リリア殿がこんなに真剣に告発しようとしているとは、思いませんでした。」
アーク司祭は手紙を軽く揺らしながら、マグヌスの方を見た。
「ですが、内容はなかなか興味深いですね。リリア殿は私の個人的な友人と知り合っていたこともそうですが、最近貴族の間で流行しているあの妙な薬が絡んでいるとなれば、ただの陰謀話じゃ済まされません。」
マグヌスは一瞬目を閉じ、深く考え込むようにしてからゆっくりと答えた。
「リリアが告発を決意したのは、彼女なりに確信を持っているからだろう。ただ、この問題が王国の名誉に関わる以上、私たちが行動を起こすなら……慎重に進めなければならない。」
アーク司祭は軽く肩をすくめて、微笑みながら言った。
「もちろん、マグヌス殿がそのようにお考えであれば、私も従います。ただ、リリア殿の決断力は時に突っ走りすぎるところがありますから、彼女の思いを少しでも理解して、早急に動く必要があるかもしれません。」
「それは承知している。」
マグヌスは静かに答え、手紙をじっと見つめた。
「だが、私たちが王城での祝賀の席にいる間に、あのような告発をしてしまえば、状況は一気に悪化するだろう。リリアがその後、どんな立場になるのか…それも考えなければならない。」
アーク司祭は少し楽しげに肩をすくめ、ニヤリと笑った。
「おっしゃる通りです、マグヌス殿。ですが、リリア殿がやろうとしていることは、もうすでに王国にとって無視できない問題ですよ?」
マグヌスは静かに頷き、手紙を再び手に取った。
「君も分かっているだろう、アーク司祭。あのセンペルという助言者が絡んでいる以上、私たちだけで事を進めるわけにはいかない。王の助言者という立場もある以上、慎重に進めるべきだ。」
アーク司祭は少し冗談めかして肩をすくめ、微笑みながら言った。
「もちろん、マグヌス殿がそうおっしゃるなら、私も協力します。ただ……リリア殿がこの件に関わることで、あの王国の堅苦しい空気を少しでも変えられれば、面白くなりそうだと思いませんか?」
マグヌスは静かに頷き、手紙を再び見つめた。
「面白そう、とはいささか軽率だな。だが、君の考えも分かる。しかし、私たちの行動が王国の未来にどう影響するか、その辺りはしっかり見極めなければならない。」
アーク司祭は軽く肩をすくめ、笑顔を浮かべた。
「そうですね、マグヌス殿。貴方がそうおっしゃるなら、私も冷静に対応します。リリア殿がどれだけ突っ走ろうと、私たちはその後の手を考えて動くべきでしょう。」
その言葉に、マグヌスは静かに頷き、二人の間に一瞬の沈黙が訪れた。
アーク司祭は軽く手を叩いた後、しばらくの間、静かな空気が流れた。マグヌスは再び手紙を机の上に置き、ゆっくりとアーク司祭の方に視線を向けた。その目には、これまでとは違う、決意を込めた輝きが宿っていた。
「アーク司祭。君には頼みたいことがある。」
マグヌスの声は、これまでの軽やかさを抑え、真剣な響きを帯びていた。アーク司祭はその言葉に反応し、興味深そうに目を細めて答えた。
「頼み事? 貴方のいうことなら何でも聞くつもりですが、どのようなことでしょう?」
マグヌスはゆっくりと息を吐き、言葉を選ぶように続けた。
「実は……建国記念日の祝賀を君に名代として出席してもらいたい。」
アーク司祭は一瞬、驚きの表情を浮かべたが、すぐにその顔を和らげ、軽く笑った。
「名代とな?」
アーク司祭は肩をすくめながら、少し興味を引かれるように見つめた。
「なるほど……貴方がそこまで慎重になるとは思わなかった。リリア殿の告発が失敗に終わった場合、商業特区に残るというのは、確かに賢明な判断だ。」
彼は少し黙り込んでから、意味深に続けた。
「もしも告発が失敗した場合、リリア殿の出奔場所も必要ですからね」
アーク司祭の言葉にマグヌスは静かに頷いた。その目には、王国の未来に対する深い責任感と共に、実の妹を案じる兄としての気持ちがにじんでいた。
「ああ、その通りだ、万が一のことを考えて、私はこの地に留まり準備をしておきたい。」
彼の声には、冷静さと危機管理の意識が感じられた。アーク司祭は微笑みながら、少しだけ手を組んで考え込むような仕草を見せた。
「それに貴方が商業特区に残るのは、ぎりぎりまで王とは対立したくないということですね。賢明な判断です。」
アーク司祭は目を細め、意味ありげに続けた。
「私には王から独立した僧兵を従わせる権限がありますからね。彼らを使って、万が一の事態に備えることができる。」
アーク司祭は微かに笑った。
「もちろん、私の僧兵はただの護衛にとどまらず、影響力を行使する手段としても活用できます。貴方が商業特区に残るのであれば、私の方で裏方として支援することはできる。」
彼は一歩前に出て、さらに低い声で続けた。
「もしリリア殿の告発が失敗すれば、私が直接動くことも考えています。辺境伯の話では王都に在籍している音楽士たちと連絡が取れないそうですから……教団の音楽士も含めて、です。その所在を確認することも私の責務でしょう」
マグヌスはその言葉に一瞬躊躇したが、すぐに自分の立場を再確認するように頷いた。
「それならば、君の支援を頼りにすることができる。しかし……繰り返すが、私は王に、従兄弟に敵対する意思はない。あくまで王国とこの領地を守るために、王と対立するような事態にはしたくないんだ。」
彼は真剣な眼差しでアーク司祭を見つめた。
「だからこそ、君の力が必要だ。」
アーク司祭はその視線を受け、深く頷いた。
「分かりました、マグヌス殿。貴方の意図を理解しました。王とは対立せず、王国を守るために動く。それが私の役目でもあります。」
アーク司祭は少し間を置いてから、また微笑んだ。
「貴方の名代。喜んでお引き受けしましょう。」
マグヌスはその言葉に安心したように息を吐き、深く礼をした
「ありがとう、アーク司祭。君の協力があれば、どんな局面でも乗り越えられる気がする。」
アーク司祭は軽く頭を下げて答えた。
「どういたしまして、マグヌス殿。貴方が王国の未来を守るために動くのであれば、私も全力で指示します。」
一瞬の沈黙が流れた後、アーク司祭はゆっくりと視線を上げ、微笑みながら続けた。
「それに……私は直接見てみたいと願っておりました。私の師兄を誑かし、神明の輪廻を壊して永遠を作り出す人間を、この目でね。」
静かな決意が二人の間に漂い、時間が少しずつ流れていく。どちらも言葉を続けることなく、今後の展開に思いを馳せていた。
マグヌスは商業特区の未来、そして王国全体の命運を背負い、アーク司祭は自らの信念に従いながら、その運命の行く先を見守るだろう。
やがて、アーク司祭が立ち上がり、軽く手を振るように言った。
「さて、それでは私は王都に向かう準備を整えましょうかね。そもそも王都まで間に合うと良いのですが。」
マグヌスは静かに頷き、アーク司祭の言葉に応える。
「君の力を借りられることを心強く思う。君への恩を返せるように努めよう」
「ふふっ。私を働かせるのは罪深いことですよ。倍にして返してもらいますからねぇ?」
アーク司祭は一度、何かを考えるように目を細め、最後に一言。
「……私は、リリア殿が選んだ道は間違いではないと思っていますよ。」
その言葉に、マグヌスは一瞬、何かを感じ取ったように深く息をついた。アーク司祭は儀礼的な一礼をマグヌスにすると、部屋を退出した。アーク司祭の後を、僧兵のミレーユが後を追う。
その日、王国の未来を左右する瞬間が近づいていることを、二人はまだ知らなかった。