超越の塔の中で
塔の最上階、無機質な空気が漂う部屋の中。
窓の外では、祝祭の喧騒が微かに届くが、その音はセンペルには届かない。
彼の視線は、王国の街並みを越え、無限の空間に溶け込む。視界の先には、過去も未来もなく、ただ広がる虚無があるだけだった。
センペルの目の奥には、何もない。
時間の流れも、物理的な制約も、すべてが無意味に感じられる。人々が今を楽しむ中、彼はその全てを超越し、何もかもが終わりに向かっていることを知っている。すべての存在が、ただの過程に過ぎないことを理解している。
部屋の隅に置かれた机。古びた書類が積まれているが、それらもまた無意味だ。センペルは手を伸ばし、その上を無造作に撫でる。紙の感触、インクの匂い。すべてが過去の残滓であり、彼にとってはもう必要ないものだ。
彼はそのまま視線を上げ、外の景色を見つめる。街の中で、無数の人々が祝祭に興じているが、彼にはそのどれもが無駄に思える。すべてが繰り返し、同じことの繰り返し。人々はただ生き、死ぬ。それだけで終わる。
センペルの心の中では、すべてが明確だ。今の人類は、もはや進化の限界に達している。彼らの肉体も精神も、もはや変わることはない。だが、それが終わりを意味するわけではない。彼は知っている。すべては新たな形に変わるだけだ。
無限の可能性が広がっている。彼の目には、無限の存在が見えている。それは今の人類の枠を超え、死をも超越する存在。彼の手によって創り出される新たな命。死なぬ者、滅びぬ者、限界を持たぬ者。彼の理想はそこにある。
センペルは静かに深呼吸をする。その息の中に、無限の未来が広がり、無限の力が宿る。彼の心は、すべての制約から解き放たれ、ただ一つの道を進む。
それは、創造の道。
新たな人類の誕生へと続く道。
時間が止まったかのような静寂の中で、センペルの目は、再び遠くを見つめる。無限の闇の中に、彼の手が触れるべき「新しい存在」が見えている。それは、人間でもなく、神でもない。彼が創り出すべきもの。
それが、すべてを超越する存在であることを、センペルは確信していた。
センペルは静かに目を閉じる。その目の奥には、何も映っていないかのように見えるが、心の中では過去の記憶が静かにうねりを上げている。
彼の手元には、いつも身につけているヒイラギの指輪があった。冷たい金属の感触が、彼の指先をわずかに締め付ける。指輪は、まるで彼の体の一部のように、無意識に身につけられている。
その瞬間、微かな音が耳に届いた気がした。
あの声、あの温かさ、あの優しさが、どこか遠くから、時の彼方から聞こえてくるようだった。思い出すのは、まだセンペルが普通の人間だった頃。あれだけがセンペルを慈しんでくれたこと。
その記憶は、まるで薄暗い部屋の中に浮かぶ、ほのかな光のように揺れ動く。あの時、彼はまだ「永遠」などを求めていなかった。彼にとって、永遠は宗教教義の中の一つの文句であり、ただの夢物語であり、決して手に入らないものだと思っていた。
だが、今やその永遠が、すぐそこに迫っている。あの声が言った通り、永遠はすぐそこに現れる。あの言葉が、まるで自分の未来を予言していたかのように、今の自分に重くのしかかる。
センペルは静かに目を閉じ、深く息を吸い込む。その中に、過去の記憶が静かに溶け込んでいく。彼の心に浮かぶのは、もう二度と戻ることのないあの日々。あの温もり、あの言葉、あの手のひらの感触。
センペルの手が無意識に指輪に触れる。その冷たさが、彼の胸の奥に静かな波紋を広げる。指輪の存在は、彼の過去を繋ぐ唯一の証のようだった。だが、もうそれに縛られることはない。
あの頃の自分は、もうここにはいない。
今の自分は、もうその温もりに縛られることはない。彼の目の前に広がるのは、無限の可能性と冷徹な理想だけだ。
「……お前が言った永遠が、今、もうすぐそこに現れる。」
その言葉が、センペルの心の中で静かに響き渡る。もはや、過去の自分に戻ることはない。ただ前に進むだけだ。
◇◆◇◆
エラとソッロがセンペルを呼び止めたのは、塔の中の静かな廊下だった。周囲には重厚な石壁が並び、足音が響くほどの静けさが支配している。その中で、センペルは立ち止まり、振り向いた。
「センペル。」
エラの声は冷静で、そして決然としていた。ソッロは少し後ろに立ち、無言でエラを支えるようにしている。エラの目はセンペルをしっかりと見据え、その瞳には一切の迷いがない。
センペルは一瞬、驚いたように眉をひそめたが、すぐにその表情を緩め、微笑んだ。その微笑みには、皮肉と共に何かを見透かすような冷徹な輝きが宿っていた。
「エラ、それに……おやおや。そちらは、どなたかな?」
センペルはその場に立ち止まり、二人を見つめる。センペルの目には、表面上の興味とともに、計算されたような冷酷さが感じられた。
「いや、知っているよ。人造兵士にキランのところへ案内させた契約士だね。一体なにをしようというのだい?」
エラは無駄な前置きはせず、すぐに本題に入った。
「センペル、貴方にお願いしたいことがある。」
その言葉に、センペルは少しだけ顔をしかめたが、すぐにその不快感を隠すようにして笑みを浮かべた。
「なんだい?貴女がこの塔に空間魔法を使役してくれるならば、ボクは喜んでなんでもするよ」
「……契約のことよ。」
エラはそのまま続ける。
「センペル。貴方と契約をしたい。」
センペルはその言葉に対して、少し考え込むような素振りを見せたが、すぐに冷徹な笑みを浮かべた。
「エラ。ボクが約束を破るとお思いなんですか?酷いなぁ。」
「ええ。センペル。貴方は信用できない。」
その目は一瞬、鋭く光り、続けて言った。
「私が求めているのは……貴方が提案してきた、キランの喉の傷を治すこと。キランの声を出せるようにすることよ。」
その言葉に、センペルは一瞬目を見開いたが、すぐにその驚きも隠して冷徹な表情に戻った。
「ああ……」
センペルは一歩前に出て、エラをじっと見つめる。その目には、深い読みが込められているようだった。
エラはその視線を受け止め、続けた。
「契約士まで連れてきて、契約魔法を持ち出すくらいですからお互い、相応のものを掛けるのでしょう?」
「命よ。」
「貸家魔女。正直、ボクには分からないなぁ。ひとつしかない命をかけるほどのことかな。」
「…センペル。貴方には分からないでしょうね。」
エラはその言葉に動じることなく、静かに答えた。
「キランは私の大切な家族だ。その傷を治すために、私は何でもする覚悟がある。」
「なんでも……ね。」
センペルはしばらく黙って考え込むようにしてから、ゆっくりと口を開いた。
「ふふっ。そう言われてはボクも引けないな。」
その言葉には、演技じみた余韻が含んでいた。センペルはしばらく二人を見つめた後、ゆっくりと頷いた。
「さぁ貸家魔女エラ。貴女とボクの命を掛けた契約を、結ぼうか。」
センペルはソッロから契約書を貰い受けながら、その目は冷ややかで、何かを測るように二人を見つめている。
契約書を読み終えたセンペルが用紙をエラに差し出す。エラは一歩前に出て、契約書に手を伸ばす。その瞬間、ソッロの目に一瞬だけ不安の色が浮かぶが、それをすぐに隠すようにしてエラの後ろに立つ。
エラは深呼吸を一つしてから、指先に魔力を込めると、契約書にサインをした。センペルもそれに続き、静かにサインを記す。
センペルが契約書にサインを済ませ、満足げに微笑んだ瞬間、ソッロが静かに前に出る。その動きは滑らかで、まるで舞踏のように無駄がない。彼の目は冷徹で、鋭い狐の瞳が輝いている。
「えーと、そんじゃあ……互いの意思を確認しだということで、これより契約の儀式を始める。いいな?」
ソッロはエラとセンペルの顔を伺いながら両者の間に立つ。
ソッロの声は低く深みがあり、周囲の空気を一変させるほどの威厳を帯びていた。彼は静かに前へ一歩踏み出し、片手をゆっくりと掲げる。その動きに呼応するかのように、微かな青白い光が彼の掌に集まり始める。
「……狐族のソッロの名において、契約を取り仕切る。」
その言葉が響くと同時に、光は一層強さを増し、空間に神秘的な振動を生じさせる。エラとセンペルの目はその光景に引き込まれ、自然と息を呑んだ。
「深淵の言葉を紡ぎ、魂の誓いを刻む。
ここに、意思を結び、力を繋ぎ、運命を定める。」
詠唱が続くたび、光は滑らかに形を変え、まるで生きているかのように契約書の上へ流れ込んでいく。契約書に触れた光は文字となり、その一つひとつが輝きながら再編成されていく。
「我が声は契約の証。我が手は誓約の媒介。
古き法に従い、互いの魂を交わりしものとする。」
ソッロが最後の一言を口にすると、光が一気に爆発的に広がり、眩い輝きとともに契約書へ吸い込まれていく。契約書が空中で燃え上がるように光の粒子となり、エラとセンペルの周囲を舞い始めた。
「……契約は、完了だ。」
ソッロが静かに手を下ろすと、辺りに漂っていた緊張感がふっと解ける。だが、その場に立ち尽くすエラとセンペルの胸には、未だに契約の力の余韻が残っていた。
エラは静かに息を吐き、ソッロに視線を投げかけた。その目には、契約を結んだという確信と共に、少しの安堵が浮かんでいた。あまりにも、呆気ない。あとはバッシュさえキランの救出を成功させれ「エラ。これで……全てが整ったかな。」
センペルは2人の思考を遮るようにそう言って、エラとソッロにわざとらしく手を差し出した。
握手を求めるその手のひらに宿る魔法の力を感じながら、エラはフンと鼻を鳴らして腕を組んだ。センペルは残念そうな顔しつつも……ふっと嗤った。
ソッロは心の中の違和感はどんどん膨れ上がっていて、もはや口から飛び出そうなほどであった。
(なんだコイツ……なんで、こんな余裕そうなんだ?何か、見透かされているような気が……。)
ソッロはその感覚を押し込め、表情には出さないようにした。契約が進む中で、センペルがすでにエラとソッロの計画を察知しているように感じてしまったのだ。センペルの余裕を漂わせた態度が、ますますソッロの疑念を深めていく。
そんなソッロを知ってか知らずか、センペルは静かに手を挙げ、近くにいる人造兵士に命じた。
「『あれ』を連れてこい。」
その命令は短く、無駄のないものだった。兵士は即座にその場を離れ、しばらくして戻ってきた。その後ろに、ひときわ異様な存在が現れた。
それは、キランにそっくりな人造人間だった。
その姿は、まるでキランがそのまま型を取ったかのように精巧で、しかしどこか冷たく、無機質な印象を与える。
エラはその光景を見て、心臓が締め付けられるような感覚に襲われた。
「な、何を…」
言葉が出なかった。彼女の目の前に立っているのは、確かにキランの姿に似ていたが、彼ではない。彼女の胸の奥に広がる痛みが、ますます強くなっていく。
センペルはキランそっくりの人造人間の肩に手を置いた。
「私は約束を守ると言ったでしょう?この子は“完璧なキラン嬢”だ」
その声には、無慈悲な冷徹さが滲み出ていた。
エラは怒りを抑えきれず、声を荒げた。
エラはキランの複製を見て、胸が締め付けられるような思いに駆られた。キランの姿に似ているが、これは、まったく別の存在だ。
その瞬間、心の中で何かが壊れる音がした。
エラは拳を握りしめ、怒りに震えた。
「センペル……お前は……どこまで人を愚弄すれば気が済む!」
エラの言葉にセンペルは肩をすくめるようにして、冷たく言い放つ。
「愚弄?そんなつもりはないですよ。ボクはただ……貴女が求めた喉に傷のない『キラン』を用意しただけだ。」
エラの声は震え、怒りと絶望が交じり合った。そういうことではないということが、この男には分からないのか。それとも分かっててやっているのか。だとすれば、正気を疑う。いや、コイツには最早正気などないのかもしれない。狂っている。
センペルは、まるでその叫びを楽しむかのように微笑んだ。
「私は至って本気ですよ。貸家魔女エラ。」
彼の冷徹な目がエラを見据え、次の言葉を紡いだ。
「そういうのならば、この子がキランの出ないと証明が出来ますか?体の構造、内臓の配置、血の流れ……全てが貴女の姪そのものなんですよ?」
その言葉は、エラの心をさらに引き裂くものだった。
エラは息を呑み、言葉を失った。
キランの姿をした人造人間が、まさに彼女の姪そのものであると言われても、彼女はその違和感を否定することができなかった。
姿形が全く同じだと言われても、心の中で何かが違うと感じる。それが人間としての「個人」であることの証明だと思いたかったが、センペルの言葉がその信念を揺さぶる。
エラはソッロに視線で問う。
エラとセンペルとの間に契約を結んだソッロは、目の前に立つキランの複製を見て、思わず言葉を失った。完璧なまでに同じ姿、同じ声、同じ魔力の波動――それは単なる模倣ではなく、本物そのものの存在感を放っていた。そもそも契約は、同じ人間が2人存在していることを想定して作られていない。
「……これは……あ、ありえない……」
ソッロは低く呟いた。契約士として、あらゆる異常事態に備える知識と経験を積んできたつもりだった。しかし、全く同じ人間が同時に存在するなど、これまでの常識では到底説明がつかない。
魔法による幻影かとも思ったが、目の前のキランの複製には明確な実体があった。呼吸、心拍、微かな体温――それらすべてが本物の人間と同じように感じられる。
想定外すぎる……。こんなことは……。
ソッロは眉間にしわを寄せた。契約士としての冷静さを保とうとしたが、内心では動揺を隠しきれなかった。魔法理論のどこを探しても、こんな現象を説明できるものはない。
「これは……エラ……オレには……」
再び口を開きかけたが、言葉が続かなかった。判断がつかない。ソッロには目の前の少女がキランでないと断定できる答えを導き出すことができなかった。
「果たして、個人とは何なのか?」
センペルは、まるでその問いかけを意図的に投げかけるかのように続けた。
「今ここで、試してみても構いませんよ?私とキラン嬢を物理的に離して、契約の履行を妨げる……あるいは、貴女の言う本物のキラン嬢の方を殺してみましょうか?
私は貴女との契約を完遂できずに死ぬでしょうかね?」
その言葉に、エラの心は凍りついた。今、センペルの言葉は単なる挑発にとどまらない。エラの返答次第ではセンペルは本物のキランを容赦なく殺すつもりだ。邪悪な男の冷徹な視線が、エラの内面を容赦なく突き刺す。
「……っ!」
エラは一瞬、息を呑み、身体が震えた。彼女はその言葉にどう反応すべきか分からなかった。キランを傷つけることなど、想像もできない。しかし、センペルの冷笑は、彼女を追い詰めていく。
「さて、どうしましょうか?」
センペルの声には、挑戦的な響きがあった。
その言葉には、確固たる自信と冷徹さが滲んでいた。
エラは拳を握りしめ、心の中で何度もキランの名前を呼んだ。だが、センペルの言葉がそのすべてを無力化する。彼の冷酷な計略に立ち向かう方法が、いまは見つからない。
その後、センペルはさらに不敵に笑いながら言葉を続けた。
「……ネズミが、入り込んでいますね。」
その言葉には、彼が全てを見越していたことを示す響きがあった。
エラとソッロはその言葉に凍りつく。
センペルがすでに彼らの計画を知っていたことが、今や明らかになった。センペルの深謀遠慮が露呈し、その冷酷さがひときわ際立つ瞬間だった。
ならば、バッシュはーーー。
そう考えても、もう全てが遅かった。
センペルは満足げに、エラとソッロを見つめた。
「さて……貸家魔女エラ。次は貴女が契約を守る番ですよ」
その言葉に、どこか満足そうな響きがあった。