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番人の葬儀屋  作者: あじのこ
第10章 前編
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僥倖の瞬間

最後の大戦から四十年余りが過ぎた。


戦乱の傷跡は癒え、諸外国との諍いも減り、国は平穏を保っている。アレクサンドル王の統治は、民衆から「賢王」と称えられるほど安定したものだった。


王宮の外では、彼の名を讃える声が絶えない。彼が治める国は繁栄し、長く続いた平和の象徴とされていた。しかし、それはあくまで表向きの姿に過ぎなかった。


王宮の奥深く、広間の一角で王は一人、重い書類に目を通していた。その額には深い皺が刻まれ、彼の内心の苦悩を物語っていた。


「陛下、どうかご安心を。」


その声は、静かに王の耳に届いた。王の傍らに立つ人物は、穏やかな微笑を浮かべていた。彼は王の信頼を一身に受ける助言者であり、国政の細部に至るまでその影響力を及ぼしていた。


「民衆の不満が増しているという報告もありますが、これは一時的なものです。」


助言者は静かに言葉を紡いだ。


「陛下の英断と私どもの努力で、すぐに収束するでしょう。」


王はその言葉に少しだけ安堵を覚えたが、ふと顔を曇らせた。


「だが、あの塔の建設……本当に必要なのか?あまりに巨大だ。神明の怒りを買わないだろうか?」


王の声には、疑念と不安が滲んでいた。しかし、その人物は微笑みを崩さなかった。


「陛下、どうか恐れることはありません。あの塔は、この国の繁栄を象徴するものです。神々の加護を得るための祈りの場でもあります。むしろ、民の心を一つにする力となるでしょう。」


その言葉は、王にとって理にかなったものに聞こえた。彼はゆっくりと頷いた。


「……そうか。君がそう言うのなら。」


王は椅子に深くもたれ、疲れた目を閉じた。


助言者は微かな笑みを浮かべた。王の不安を取り除く術を、彼は知り尽くしていた。そして、王の決断を少しずつ自分の望む形へと導いていくのだった。


助言者はテーブルの上に手を伸ばした。そこには磨き抜かれた銀の水差しが置かれている。彼は慎重な手つきでそれを持ち上げ、澄んだ液体を王のグラスに注いだ。


「陛下、これをお飲みください。いつものように、心を落ち着ける助けとなるでしょう。」

その声は、どこまでも穏やかだった。


王はグラスを持ち上げ、わずかに残る液体を眺めた。透明なはずのそれは、月光を受けてかすかに揺らめき、奇妙な輝きを放っているように見える。


「……ああ。いつもの薬か。」


王はそう呟き、助言者を見上げた。


「お前の調合してくれたものが、一番効く。」

「光栄です、陛下。」


助言者は微笑を浮かべ、王の言葉を受け取る。その態度には、どこか確信めいた余裕があった。


王は一息つくように、グラスの縁に唇をつけた。液体が喉を滑り落ちると、胸の奥に広がる重苦しさが徐々に霧散していく。だがその代わりに訪れるのは、奇妙な静寂――まるで、何か大切な感覚を手放したかのような空虚だった。


助言者は静かに水差しを元の場所へ戻し、王の様子を一瞥した。その目に浮かぶのは、親愛でも忠誠でもない。冷たく計算された視線だけだった。


センペルは静かに王の様子を見守りながら、心の中でつぶやいた。


「この国は、豊かになりすぎてしまった。」


研究のために必要なものは、過剰な繁栄の中にはない。国が発展し、民が満ち足りることで、逆にセンペルの探求心を満たすものが少なくなっていった。豊かすぎる国では、欲望も消え、変化を求める力も弱まる。彼が求めるのは、もっと不安定で、予測できない変化が渦巻く環境だ。


繁栄した国では、研究に必要な資材を手に入れることが次第に難しくなっていく。特に、センペルが求めるような特殊な資材、そして最も重要な「人体」を調達することが、今や一層困難になっていた。貧困や混乱が人々を脅かし、彼らが必死に生き延びるためには、あらゆる手段が許される。しかし、豊かな国では、欲望が満たされ、誰もが自分の安定を守ろうとし、余計なことに目を向けなくなる。センペルにとって、必要なものが手に入りにくくなるということは、研究における進展が鈍化することを意味した。


人々が安定している限り、私の手が届くものは限られる。


センペルは、冷徹に現実を見つめながら考えた。国が栄え、民が満ち足りると、彼が求めるような不安定さや変化は生まれにくくなる。安定した社会では、センペルが必要とする「資材」……特に人体やそれに関連する研究材料を手に入れるための隙間が狭まるのだ。


「研究に必要なものが、もはや簡単には手に入らない。」


センペルは、心の中で不満を漏らす。以前なら、ニズル達や貧困層や混乱した状況を利用して必要な資材を手に入れることができたが、今では国の繁栄がその道を閉ざしている。人々が安定を求め、秩序を守ることに重きを置くことで、裏社会の取引も減り、隠し事をする余地が狭まっていた。


「人体を調達するにも、手間がかかるようになった。」


センペルはそのことを痛感していた。以前なら、目立たずに必要なものを集めることができたが、今では監視の目が厳しくなり、動きが制限される。繁栄した社会では、センペルのような者が動くこと自体が目立ち、疑念を呼び起こすのだ。


「……変化を恐る愚か者どもばかりだ。」


センペルは、再びつぶやいた。社会が安定している限り、センペルは思うように研究を進めることができない。


やはり、食うに困らない程度の仕上がりの国が一番だ。


センペルは、冷静に考える。貧困がある程度存在し、社会が不安定であれば、センペルは裏で動きやすくなる。人々が生きるために必死になり、どこかに隙間ができるからだ。しかし、豊かな国ではその隙間が埋められ、必要な資材を手に入れる方法も限られていく。


この国の繁栄は、いずれ私の研究を鈍らせるだけだ。


センペルは、冷徹に現実を見つめながら、自分の目の前に広がる「安定した世界」がどれほど自分の目的にとって不都合であるかを痛感していた。


運命の一歩を踏み出すには、あまりにも理想的な状況だった。


センペルは静かにその三人を見つめながら、心の中で確信を深めていった。増殖の能力を持つアナスタシア、空間魔法の使えるエラ、そしてあのキランという少女。これほどまでに研究に必要な資源が一度に揃うことなど、まさに奇跡に近い。


センペルは、口元に冷徹な笑みを浮かべた。彼が長年求めていた能力が、今、目の前にある。


この三つの力は、センペルの研究を進める上で欠かせないものだった。それぞれが持つ特異な能力は、彼の探求心を満たすには十分すぎるほどの価値がある。


これは、僥倖と言わずして、何を幸運と呼ぶのだろうか。いや、これは運命である。


センペルは、心の中でその言葉を繰り返しながら、満ち足りた思考に浸った。研究者として、彼がこれほどまでに理想的な状況に恵まれることは、まさに奇跡的な出来事だった。


だからこそ、センペルは動いた。新しい変化が、彼の手の中にある。これを逃す手はない。彼はその力を手に入れるために、すべてをかけて行動を開始した。今まだ築いたものを壊すのに、もはや何の躊躇もない。安定した世界がもたらす無駄な障害が、この瞬間に全て消え去ったように感じられた。


今、センペルの目の前には、彼が長年求めていた変化が広がっていたのだ。

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