月光の下、扉の先へ
夜の冷気が庭に静かに降り注ぎ、月光が雪の上に薄く反射している。リリアの館は、重厚な石造りで静寂に包まれ、まるで時間が止まったかのような雰囲気を漂わせていた。雪は庭を覆い、すべてを白く染め上げているが、その雪の中にもどこか不穏な空気が漂っていた。
バッシュは、館の広間から外に出る準備を整え、執事のロスベルトと共に庭に向かって歩き出した。リリアは窓辺に立ち、少し遠くから二人の姿を見守っている。彼女の表情は穏やかでありながら、どこか目に見えない重さを感じさせた。
「気をつけて行ってこい。バッシュ。……また向こうで会おう。」
リリアの声が、静かな夜の空気に溶け込んだ。
バッシュは一瞬、リリアの方を振り返り、軽く頷く。その顔には、これからの旅に対する覚悟と少しの不安が混じっていた。
庭に足を踏み入れると、雪が踏みしめられる音が響く。ロスベルトが後ろで静かに扉を閉め、庭の奥へと続く道を指し示した。
その時、ふとバッシュは空を見上げた。空は一面に曇り、月の光が雪に反射して薄く輝いていた。
バッシュはしばらく歩みを進めた後、ふと立ち止まり、少し躊躇するように言葉を切り出した。
「あの……実は最後にリリアさんに尋ねたいことがありまして。」
リリアはその言葉に振り返り、軽く眉を上げた。彼女の表情には、どこか鋭さと穏やかさが同居している。
「なんだ?」と、リリアは少しだけ口を開けて答える。
バッシュは荷物から封筒を取り出し、それを手に持ちながらリリアに向けて差し出した。封筒は手にしっくりと収まり、月明かりを受けて微かに輝いている。
中身は空っぽで、ただ一つ、封蝋がしっかりと押されているだけだった。その封蝋は、王国の特別な印であり、高位の役職に就かないと使えないものだ。
リリアは封筒を受け取ると、すぐにその印に目を留めた。封蝋の形状を確認し、少しだけ眉をひそめる。
「この封蝋、王国の……」
彼女は封筒を軽くひっくり返し、上に書かれた名前を目で追った。そして、しばらくその名前を静かに見つめた後、リリアは口を開いた。
「グラント・フェアクロー……たしか、王国に仕える音楽隊の総指揮者じゃないか?」
バッシュはその言葉に一瞬、驚きの表情を浮かべた。父親が、王国に仕えるような人間だとは、バッシュ自身が思いもよらなかったからだ。
「バッシュ。どうして、これを持っているんだ?」
バッシュは少しだけ間を置き、深く息を吐いてから答えた。
「あの……実は死んだ母親から受け継いだもので」
その封筒が、母親から渡されたものであることを思い出し、バッシュの胸に少しだけ痛みが走った。
「そいつがオレの父親だと言っていたんです。まぁ……顔も知らないですけど。」
バッシュはそう言いながら、リリアから封筒を再度受け取った。その瞬間、彼の手は少し震えていたが、強く握りしめることでその震えを抑え込もうとしていた。
「オレ、そいつを見つけて文句を言ってやろうと思って。母さんがどれだけ苦労したのか……一言言ってやりたくて。」
リリアは黙ってバッシュを見つめ、しばらくその言葉を噛みしめるように聞いていた。彼女はバッシュの目をじっと見つめ、言葉を選ぶように口を開いた。
「そうか……」
その言葉には、リリア自身の複雑な感情がにじんでいた。
グラント・フェアクロー。
彼女もその名は知っている。王国に仕える音楽隊の総指揮者として、神明の加護を受ける音楽を奏でることができる、非常に優れた人物だと聞いている。しかし、そんな人物が母と子を捨てる?リリアはそのギャップに違和感を覚え、心の中で何かが引っかかる感覚を覚えていた。
その違和感を抱えたまま、リリアはバッシュの肩を軽く叩いた。
「ならば、すべてが落ち着いたらお前とグラント殿を引き合わせよう。」
「え……?」
バッシュは突然のことに動揺した。父親が本当に見つかるのか、そしてリリアが手引きしてくれるという言葉に、彼の心は完全に予想外の方向へと引き寄せられた。現実感のなさに、バッシュは一瞬言葉を失った。胸の中で湧き上がる感情に、どう向き合っていいのかがわからない。
「本当に……会わせてもらえるんですか?」
リリアは微笑みながら、静かに答えた。
「もちろん。私を誰だと思っている?腐っても王家の血が入っているのだぞ。お前が望むのであれば、私が力を貸そう。」
その言葉に、バッシュは少しだけ胸を張った。リリアの真剣な眼差しに、どこか安心感を覚えながらも、彼の心の中では新たな不安が芽生えていた。父親との再会がもたらすものが、どんな結果を生むのか、まだバッシュには見当がつかなかった。
その時、一陣の冷たい風が吹き抜け、雪を舞い上げる。バッシュは一瞬、寒さに身を縮めながらも、すぐに気を取り直して思った。
もう行かなくてはならない。バッシュの心は未だに混乱していたが、リリアの言葉がどこかで支えになっていることを感じていた。リリアに一礼すると、バッシュは雪の降り積もる庭へと足を向けた。
◇◆◇◆
庭の真ん中に足を踏み入れたその瞬間、バッシュの目の前に異変が起きた。雪が静かに舞い散る中、突然、空間が切り取られるように感じられた。まるで時間が歪んだかのように、雪の中に長方形の空間が現れ、そこに一枚の扉が突如として現れる。
その扉は、まるで異世界から来たように、庭の景色と完全に調和していない。古びた木の扉で、金具が微かにきしむ音を立てながら、ゆっくりと開いていく。
バッシュは一歩、後ろに下がり、思わず息を呑む。その扉の向こうから、静かにエラが姿を現した。彼女は、雪の中に立つその姿も、まるで影のように浮かび上がり、冷徹な眼差しでバッシュを見つめている。
「エラ……」
バッシュの声が、雪の中でひときわ大きく響く。エラは何も答えず、ただ冷たく彼に視線を送るだけだった。
庭の静けさと、扉が開いた瞬間の異様さが、バッシュの胸に不安を募らせる。リリアの館から続く、何もかもが完璧に整った静寂とは裏腹に、エラの登場はすべてをかき乱すような、どこか不気味な予兆を感じさせた。
「迎えに来たわよ。ぼうや。」
エラの冷徹な声が、夜の静寂を切り裂くように響く。
「ぼうやっていうのやめろよ。」
バッシュは少し顔をしかめ、足元の雪を踏みしめながら答える。だが、その言葉に含まれた反発は、どこか弱々しく感じられた。
「あら。私にとってはぼうやはぼうやよ。」
エラの冷笑が、雪の中でひときわ冷たく響く。その声の奥に、何か嘲笑を含んでいるような気がして、バッシュは思わず背筋を伸ばした。
「じゃあ、覚悟はいいわね。」
「覚悟も何も……やるしかないんだろ。」
バッシュは肩をすくめるようにして言う。言葉には、決意と諦めが混じっていた。すでに何度もこの旅の不安と向き合ってきたが、それでも前に進むしかないことを、心の中で再確認していた。
「まぁ……それもそうね。」
エラは冷淡に頷き、さらに一歩踏み出す。バッシュはその後ろ姿を見つめながら、少しだけ足を止めた。
その時、バッシュはふとリリアの館の方へ目を向けた。2階の客間にいるヴァルのことを思い出す。あの後、ヴァルはまた気を失うように眠ってしまった。今、ヴァルに何も伝えられないことが、バッシュの胸に重くのしかかる。なんだか異常に胸がザワザワした。
「準備はよいかしら?……行きましょう。」
エラの声が、バッシュを引き戻す。だが、バッシュは一瞬、館の方を見上げたまま動かなかった。もしヴァルが目を覚ました時、話さなければならないことがたくさんある。
……また目が覚めたら、その時に話そう。
バッシュは静かに呟いた。できれば、その時にはヴァルのそばにアナスタシアの棺を連れてきてやりたいと、心の中でひっそりと願っていた。
アナスタシアが、ヴァルにとっての光であるならば、その光を取り戻す手助けができればと思った。そうすることで、あの傷だらけの葬儀屋がもう傷を負わなくて済むようにしてやりたかった。
今はそれを叶えるために進むしかない。
バッシュはエラの後を追い、庭の奥へと歩みを進める。
そして、バッシュがエラの背後に続いて歩みを進めると、突如として庭の中に現れた扉が、まるで何事もなかったかのように静かに閉じられていった。まるで一瞬の幻のように消え失せ、雪の中に何もなかったかのように再び静寂が訪れた。
その瞬間、バッシュはリリアの館を振り返ることなく、暗闇の中へと足を踏み入れる。後には扉も、エラも、バッシュも。
すべてが跡形もなく消えていった。