儚き命の彼方で
葬礼教団の厩舎で、バッシュは小馬のトロントと黒い犬のエゾフを迎えに行った。二頭とも変わらず元気そうな様子に、自然と肩の力が抜ける。
「トロント、相変わらず元気だな」と微笑みながら小馬のたてがみを軽く撫でると、トロントは嬉しそうに鼻を鳴らした。
一方で、エゾフはバッシュを見るなり勢いよく駆け寄ってきて、尻尾を大きく振りながら飛びついてきた。その熱烈な歓迎に苦笑しながら、バッシュはエゾフの頭を揉みくしゃみにする。
「なぁ、エゾフ。オレ、訳あって少しの間ここを離れるんだ。だから、その間はトロントと一緒に別のところで世話になってもらってもいいか?」
戯れるエゾフの耳元でそう言うと、エゾフは一瞬動きを止めたが、すぐに嬉しそうに舌を出してバッシュの手を舐めた。その仕草にバッシュは笑いながら「お前は本当に分かってんのか?」と軽く呟いた。
◇◆◇◆
トロントとエゾフを連れてリリアの私邸に到着すると、館の前でロスベルトが右往左往しているのが見えた。落ち着きのないその様子に、何かあったのかとバッシュは眉をひそめる。
だが、ロスベルトはバッシュを見つけると、まるで救いの神を見たかのように大きく手を振った。
「バッシュさん!ヴァル様が目を覚ましましたよ……!」
その一言は、まるで稲妻のようにバッシュの耳に響いた。
「……本当か!?」
驚きに声が裏返るのも構わず叫ぶと、ロスベルトは力強く頷いた。
その瞬間、バッシュはトロントの手綱をロスベルトに押し付け、エゾフを置いて駆け出した。足がもつれるほどの勢いで館の扉を開け放ち、廊下を走る。
胸が高鳴る。ヴァルの顔が頭に浮かぶたび、喉の奥が熱くなった。
「ヴァル……!」
彼の名を呼びながら扉を開け放つと、そこには、ゆっくりと身を起こそうとしているヴァルの姿があった。その目が微かにこちらを捉えた瞬間、バッシュの胸に安堵と歓喜が押し寄せた。
「バッシュ……ずいぶん、雪が積もったな」
ヴァルが微かに笑みを浮かべながら呟く。その声はまだ少し掠れていたが、確かに生きている温もりを感じさせた。
バッシュは思わず喉が詰まりそうになるのを堪え、そっぽを向いて答えた。
「お、お前が……お前が起きるのが遅いからだよ……!」
そう言いながらも、目尻に滲んだ涙を誤魔化すように大きく息を吸い込む。
窓の外には、白銀の世界が広がっていた。静寂の中、降り積もった雪が柔らかな光を反射している。
「そうか……私は、ずいぶん長く眠ってたんだな」
ヴァルの視線も外へと向けられる。その穏やかな横顔を見たバッシュは、胸の奥に押し込んでいた感情が一気に溢れそうになるのを感じた。
「……でも、ちゃんと目を覚ましただろ? それでいいんだよ」
そう呟くと、ヴァルは小さく頷いた。その仕草に、バッシュはようやく心の底から安堵の息を吐いた。
客間は柔らかな灯りに包まれていた。暖炉の火がぱちぱちと音を立て、部屋全体を温かく照らしている。天井にはアンティークのシャンデリアがきらめき、窓の外に広がる雪景色とは対照的に、室内はまるで温かい家のようだった。
ロスベルトが呼んだ医者が去った後、ヴァルはベッドで腰掛け、バッシュが持ってきた毛布を肩にかけている。その顔はいつもよりも疲れ切っており、目の下に薄い影ができていた。
バッシュは心配そうにヴァルを見つめていた。視界の中に入れていないと、溶けた雪のように消えてしまいそうだった。火の前で手をこすりながら、言葉を選ぶように口を開く。
「ヴァル、お前まだ傷が……」
「もう治らない。」
ヴァルは静かに言った。
「…….治らない?」
その声はほとんど耳に届かないほど微かで、まるで自分自身に問いかけるようだった。
バッシュは目を見開き、驚きと疑念を浮かべた。心臓が一瞬、止まりそうになった。
「この体にはもう……未来がないんだ。」
ヴァルはその言葉を呟くように、火をじっと見つめていた。焚き火の炎が揺れ、彼の顔に踊る光と影が交錯する。その影は、まるで彼の心の中にある深い闇を映し出すかのように、深く、そして冷たく刻まれていた。
1000年前のあの日、センペルに言われたことを思い出す。アナスタシアの奇跡のカラクリだ。
あの手から溢れていくのが未来からの借り物だとすれば、以前彼女の手によって治された腕の傷がまたひらき、こうして塞がらないまま血を滲ませている意味を、ヴァルは悟っていた。それはただの傷ではなく、彼自身の時間が確実に消えていっている証拠だった。
その瞬間、ヴァルの胸の奥に冷たい感覚が広がった。手のひらを見つめ、傷が再び開くことを恐れながらも、それが避けられないことを理解していた。どうか自分の役目を果たし終えるまでは、もって欲しい。願うように、ヴァルは腕に浮かび上がる傷をギュッと握りしめた。
「……どうしてそんなことを言うんだよ。」
バッシュの声は震え、彼の目には見えない涙が溢れそうだった。強く、しっかりとしたバッシュの姿が、今はまるで崩れそうなほど脆く感じられた。
「バッシュ、わかるんだ。私にはもう時間がない。」
その言葉は、ヴァルの心から絞り出されたように感じられた。彼の目が少しだけ遠くを見つめ、過去と現在が交錯する瞬間だった。バッシュの顔が歪んで見えるのは、ただの光の加減だけではないだろう。ヴァルの心が、自分の言葉に耐えきれず、崩れそうになっているのがわかった。
ヴァルはゆっくりと息を吐き、目を閉じる。
その静かな時間が、二人の間に広がった。ヴァルの言葉が重く響く。
「バッシュ。アナスタシアのこと……お願いがある。」
バッシュはヴァルの言葉に耳を傾け、少し距離を取った。ヴァルは顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「もし、私が死んだ時、アナスタシアの遺体を……もうこれ以上、誰にも利用されないようにしてくれ。」
バッシュはその言葉を聞いて、心が締めつけられるような思いに駆られた。けれど、何も言えなかった。
「目が覚めてからずっと……あの時、悪魔が言ったことを思い出すんだ。『神に愛されながら死んだ者の霊魂が彷徨っている』って。」
ヴァルは視線を外し、遠くを見つめるように呟いた。
「でも、それは嘘だと思う。彼女の魂はきっと……もうこの世にはいないんじゃないか、と……」
その言葉に、バッシュは息を呑んだ。
言葉が出ない。
ヴァルの視線は、雪が静かに舞い降りる窓の外に向けられていた。その目は、どこか遠くを見つめているようで、心の中で繰り返し思うのはアナスタシアのことだった。
悪魔は言った。
彼女が自らの手でこの世を去ったその瞬間から、アナスタシアの魂は肉体を離れてどこに行ってしまったのだ、と。
アナスタシアはもういない。
生きていない。死んでいるんだ。魂でさえこの世にはもういない。
その事実をこの1000年間、何度も自分に言い聞かせてきた。だが、同時に、心のどこかで願ってしまう自分がいる。もし彼女の魂がまだこの世にとどまっているとしたら、それはもしかしたら自分への執着からなのではないかと。
彼女が、まだ自分のことを忘れられずに、この世に留まっているのではないかという恐れと、同時にそのことを強く願う自分がいる。
もし彼女の魂が今もこの世にいるのだとしたら、もう一度だけ、会いたいと切に願う。
だが、その願いがどれだけ愚かなものかも、ヴァルは理解している。彼女の魂が、もしまだ自分のためにこの世にとどまっているのだとしたら、それは彼女にとって何の安らぎもないことだろう。あるいは冒涜にも等しい想いだ。
アナスタシアが本当に望んでいるのは、静かな眠りだと分かっている。それでも、ヴァルの心はその思いを捨てきれない。
彼女が自分に執着しているのではないかという願いは、ヴァルにとって深い苦しみの源であり、それと同時に救いを求める声でもあった。アナスタシアがもう一度、自分の元に戻ってきてくれるのなら、それはどんなに嬉しいことだろう。
だから、あの時悪魔に乗っ取られたアナスタシアを見て、一瞬嬉しいと感じてしまったのだ。
その思いが、ヴァルを苦しめる。アレは、アナスタシアではない。彼女であってはならない。
彼女の魂が安らかであってほしいという願いと、同時に自分がその安らぎを妨げてしまっているのではないかという恐れが交錯する中で、ヴァルはただ静かに目を閉じ、深く息を吐いた。
「でも……もし本当にそうなら、それで良いと思う。アナスタシアが苦しむことがなければいい。それが一番なんだ。……けれど、私はもう一度だけ、アナスタシアに会いたいと願ってしまう。」
ヴァルは小さく息を吐き、目を閉じた。
「会って、もう一度……」
その言葉は、彼の心の奥から静かに漏れ出た。バッシュはただ、黙って彼を見守るしかなかった。暖炉の火が揺れる音だけが、部屋に響いていた。