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番人の葬儀屋  作者: あじのこ
第10章 前編
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あたたかな鼓動

バッシュはリリアの私邸を出ると、深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を満たし、雪の匂いが鼻をくすぐる。白く染まった街並みは静寂に包まれ、足元で雪が軽く軋む音だけが響いていた。


「……春になっちまうなんて、冗談じゃないよな」


呟きながら、バッシュはゆっくりと歩き始めた。向かう先は葬礼教団の事務所。だが、足を進めるたび、あの日の記憶が胸の奥から浮かび上がってくる。


センペルの館。

激しい炎、崩れ落ちる天井、耳をつんざく悲鳴――あの日、館は地獄そのものだった。雪の静けさの中に蘇る。

 

「……くそっ」


あの時、自分は何を守れた?

何にも、できなかった。

ヴァルが倒れた瞬間が脳裏を過ぎる。血に濡れた床、震える手で彼を抱え上げた感触。それは今でも肌にこびりついて離れない。バッシュはそれから逃れるように、頭を振った。


足を止て深く息を吐いく。冷たい風が頬を撫でる。周囲はただ雪が降り続けるばかりで、誰もいない。静寂がかえって記憶を鮮明にするようだった。


「……オレは、何も出来なかった」


雪を蹴りながら歩き出す。目の前の道は白一色で、まるでどこまでも続いているように見えた。それでも、彼の足は葬礼教団の事務所へと確かに向かっていた。


そこにいるトロントとエゾフの顔を思い浮かべると、ほんの少しだけ心が軽くなる気がした。


雪道を進み、目の前に現れた建物は、黒々とした石造りの壁と天に向かってそびえる尖塔を持っていた。長い年月を経た重厚さを感じさせるその佇まいは、雪に覆われた街の中で異質な存在感を放っている。壁面には蔦のような装飾が彫り込まれ、まるで建物そのものが静かに呼吸をしているかのようだった。


バッシュはその扉の前に立ち、手を伸ばした。冷たい金属の取っ手に触れると、指先がじんと痺れる。両手で押し開けると、静寂を破るように重い音が響き、中から冷たい空気が流れ出してきた。


中へ一歩足を踏み入れると、外の白い世界とは対照的な薄暗さが広がっていた。高い天井からは細い鎖で吊るされた燭台がぶら下がり、揺れる蝋燭の光が壁や床に不規則な影を落としている。石造りの床は冷たく、足音が低く反響する。


壁には大きな窓がいくつも並び、その全てが色とりどりのガラスで埋め尽くされていた。光が差し込むと、赤や青、緑の模様が床に映り込み、揺らめく光の絵画を描き出している。その光景は美しくもどこか不気味で、背筋に冷たいものが走る。


バッシュは重い扉を押し開け、教団の事務所に足を踏み入れた。薄暗い空間に蝋燭の揺れる光が影を落とし、静寂が支配している。


「……オスカーさん?」


呼びかけるが返事はない。受付の机には誰もおらず、代わりにきれいに整頓された書類が置かれている。


「珍しいな、いないのか?」


バッシュは首をかしげながら奥へ目を向けた。オスカーが席を外すなんて滅多にない。


ふと、視線を上げると、天井に何かがぶら下がっているのが目に入った。


「……なんですか?」


目を凝らすと、それは人影だった。


「うわっ!?」


驚きの声を上げると同時に、ぶら下がっていた人影が微かに動いた。


「……貴方でしたか。バッシュさん、貴方は本当にいつも騒がしいですね」


天井から静かな声が響く。ぶら下がっていたのは、事務員のオスカーだった。彼は昼間の明かりを避けるように黒いマントで体を覆い、腕を組んで逆さまのまま無表情でこちらを見下ろしている。


「お、おい……何やってんだよ、天井で」

「昼間は寝ている時間です。私たちには普通のことですが」


淡々と答えるオスカー。バッシュは少し呆れたように額に手を当てた。


「寝てるって……昼間に人が来るかもしれないって考えないのかよ!?」

「来客があれば対応します。げんに今、こうして目覚めましたから」


オスカーは一切動揺することなく、逆さまのままの姿勢を保っている。


「はあ……ほんと、あんたには敵わねえな」


バッシュは椅子を引き寄せ、天井にぶら下がるオスカーを見上げた。


「降りてこないのか?」

「必要があれば降りますが、特に問題がないのでこのままでも」

「いや、問題しかねえよ!」


バッシュはため息をつき、椅子から立ち上がった。


「まぁ、いいけどよ……中、勝手に失礼するぞー」


バッシュは軽く肩をすくめると、事務所の奥へ続く通路に足を向けた。中庭を抜けて厩の方へ向かう。

扉を開けると、冷たい外気が頬を撫で、雪に覆われた中庭が目に入った。白く染まった景色の中、厩の方から小さな蹄の音と、低く唸るような声が聞こえてくる。


「おーい、トロント、エゾフ!」


バッシュが声をかけると、厩の中からまずトロントがひょこひょこと顔を出した。小さな体の馬は、バッシュの姿を認めると耳をピンと立てて駆け寄ってくる。


「お前、また雪の中で転ぶなよ?」


バッシュが笑いながらトロントの首筋を軽く撫でると、今度は黒い影が厩から飛び出してきた。


「エゾフ!」


黒い大きな犬が低く吠えながらバッシュに突進してきた。喜びを全身で表現するように尻尾を大きく振り、鼻先をバッシュの手に押し付けてくる。


「おいおい、落ち着けって!」


バッシュは笑いながらエゾフの頭を撫でる。トロントもエゾフも、雪の中で動き回るのが楽しいのか、二匹ともバッシュの周りをぐるぐると駆け回り始めた。


「……ったく、お前らは元気だな」


雪の冷たさも忘れそうなその光景に、バッシュは思わず笑みを浮かべる。


中庭の静けさの中、トロントとエゾフのはしゃぐ音が響き渡る。バッシュはしばらく二匹と戯れた後、ふと空を見上げた。舞い落ちる雪が白いベールのように空を覆い、どこか遠い世界にいるような感覚が胸をよぎる。


「……さて、そろそろ戻るか」


バッシュは二匹に声をかけると、厩の中へと誘導し始めた。


「よし、お前らも落ち着けよ」


バッシュは戯れるトロントとエゾフを制しながら厩の中へ足を踏み入れた。

トロントの寝床には使い古された藁が散らばっている。湿った藁からわずかに鼻をつく匂いが漂い、バッシュは顔をしかめた。


「こりゃ、さすがに替えないとな」


トロントが大人しく見守る中、バッシュは寝床の掃除を始めた。古い藁を熊手でかき集め、木の桶に放り込む。動作に慣れた手つきが、長い旅の中で身につけた経験を物語っていた。


「トロント、お前もよくこんなとこで寝てたな。ごめんなぁ。もっと早く替えてやればよかった」


小さな馬がふんっと鼻を鳴らすと、バッシュは苦笑いを浮かべる。


桶がいっぱいになると、それを厩の外へ運び出し、新しい藁を抱えて戻ってきた。手にした藁は雪の冷たさが染み込む前に厩の隅に積まれていたもので、ほんのりと乾いた草の香りが漂っている。


「さあ、ふかふかのベッドを作ってやるからな」


バッシュは新しい藁を寝床に敷き詰めながら、手で均していく。ふわりと広がる藁の感触に満足したのか、トロントがそっと鼻先を近づけた。


「気に入ったか? ほら、試してみろよ」


バッシュが促すと、トロントは一歩ずつ慎重に藁の上に足を踏み入れ、最後にはその小さな体を丸めて横になった。


「ふぅ、これで明日の朝までは快適だろ」


バッシュは額の汗を拭い、トロントの背中を軽く撫でた。その様子を見ていたエゾフが、羨ましそうに低く唸る。


「お前もか? じゃあ、次はお前の番だな」


エゾフの黒い瞳が嬉しそうに輝くのを見て、バッシュは苦笑いを浮かべた。


「オスカーが2頭の世話をしてくれてたんだろうけど……まぁ、最低限ってとこか」


古びた藁や空になった餌桶を見ながら、そう呟く。けれど、この場を借りている以上、文句を言うのは筋違いだ。むしろ、自分がもっとしっかりしてやるべきだとバッシュは思う。


「これからはもっと頻繁に帰ってきてやるからな」


心の中でそう誓いながら、バッシュは再び手を動かし始めた。


エゾフの寝床を整え終えたバッシュは、ブラシを手に取り、トロントの毛をそっととかし始めた。優しく、ゆっくりと。その仕草は、ヴァルがトロントを愛おしむときのそれによく似ていた。


トロントは鼻を鳴らしながら目を細め、心地よさそうに身を任せている。その様子を見ていたエゾフが、少し羨ましそうに低く唸る。


「お前もか。後でちゃんとやってやるよ」


バッシュは苦笑いしながらトロントの耳元に顔を近づけ、ぽつりと呟いた。


「……ヴァルは、怪我をしちまったんだ。今別のところで横になって休んでるんだ。」


トロントの耳がぴくりと動く。バッシュはブラシを動かす手を一瞬止めたが、またそっと撫でるように再開した。


「オレが一緒にいて、ごめんな……。お前らにも、しばらく寂しい思いさせるけど……許してくれ」


エゾフが近づいてきて、バッシュの膝に頭を押し付ける。トロントも小さく鼻を鳴らし、まるでバッシュを慰めるようだった。


「……ありがとな」


バッシュは小さく笑うと、エゾフの頭を軽く撫で、再びトロントの毛をとかし始めた。

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