眠りの果て
あの雪の日。
センペルの館が炎に包まれたあの日から、バッシュはリリアの私邸とオスカーのいる葬礼教団の事務所を行き来する日々を送っていた。
ヴァルの意識は酷い高熱にうなされ、混沌としており、熱がおさまっても意思の疎通が困難なほど無明瞭なまま眠り続けていた。
ヴァルの傷は深刻で、特に頭部の負傷はひどかった。それに加え、腕に残る過去の傷までもがうっすらと傷口を開き、医師は塞がっていた外傷がまた開くなんて、と首を傾げていた。それはまるで、生きることそのものを拒絶しているかのように見えた。
無理に動かせば命に関わる恐れがあり、リリアの厚意に甘える形で私邸に留まり、静養を続けている。
あの日、ニズルを拷問するリリアの姿は、バッシュには恐ろしくて仕方がなかった。しかし、ヴァルが倒れてからの彼女は、まるで別人のようだった。館の人間に部屋を用意させ、医者を呼ばせるなど、あの激情に駆られた姿からは想像もつかないほど親切だった。
抑えきれない激情に飲まれるほど、リリアはどこか脆く、それを覆い隠すように振る舞っているのだろうか――そんな疑念がバッシュの胸に浮かんでは消えていく。
薄布を桶の中の水に浸す。冷たい。指先がじんわりと痺れる感覚を無視して、軽く絞った布をヴァルの頭の上にそっと乗せる。この作業を、いったい何度繰り返しただろうか。布を取り替えても、呼びかけても、ヴァルは微かに眉を動かすことすらなく眠り続けている。
「……おーい。いつまで寝てんだよ」
バッシュはため息をつき、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。腕を組んで、じっとヴァルの顔を見つめる。その表情は静かで、どこか無防備だったが、彼が目を覚ます気配はまるでない。
暖炉の火がパチリと音を立てる。まるで、バッシュの言葉に返事をするように。
だが、その音はただの空虚な反響にすぎなかった。部屋には、彼とヴァルの二人きり。いや、ヴァルはこの沈黙の中にいるのかさえ分からない。
火の明かりが揺れるたび、バッシュの影が壁に伸びては縮む。それはまるで、彼の孤独そのものが形を持って現れているかのようだった。
窓の外を見ると、一面の雪に覆われた街並みが広がっていた。屋根の上には白い布をかけたような雪が積もり、通りは人影もまばらで、凍てついた静けさに包まれている。時折、遠くから聞こえる犬の鳴き声が、寒々しい空気をさらに引き締めていた。
「そんなに寝てたら春になっちまうぞ……アナスタシアを見つけに行くんだろ」
バッシュは呟くように言いながら、ちらりとヴァルを見た。ベッドに横たわる彼は微動だにせず、暖炉の火の揺らめきがその顔をかすかに照らしている。
窓の外では雪がしんしんと降り続き、音もなく地面を覆い尽くしていく。その白さは美しい反面、どこか底知れぬ孤独を感じさせた。
バッシュは椅子に座り直し、凍えるような静寂の中でヴァルの返事を待ち続けた。けれど、聞こえるのは暖炉の火が弾ける音と、遠くの雪解けを待つ街の無言の声だけだった。
「バッシュさん。また雪が降ってきましたよ」
執事服をきちんと着こなした初老の男性が、部屋に入るなり穏やかに声をかけた。
「……ロスベルトさん」
バッシュは椅子に座ったまま振り返る。彼の声には疲労が滲んでいた。
「お寒くはないですか?少し薪を足しましょう」
「なにからなにまで本当にすみません」
「いえいえ、お嬢様の大切なご友人でいらっしゃいますから」
ロスベルトと呼ばれた執事は、静かに微笑むと暖炉のそばにしゃがみ込んだ。手慣れた様子で薪をくべ、火を調整する。炎が勢いを取り戻し、部屋の中に暖かな光と心地よい熱が広がった。
「バッシュさんも、あまりご無理をなさいませんように」
「……あはは。雇い主がこんなんだから、他にすることもなくてですね」
バッシュは肩をすくめて笑ったが、その笑みにはどこか力がなかった。
「ご心配ですね」
ロスベルトは暖炉の火を見つめながら静かに言った。その声は、バッシュの心に寄り添うような温かさを帯びていた。
「バッシュさん、少しお休みになってはいかがですか?」
ロスベルトは暖炉の火を見つめながら静かに言った。
「私が代わりましょう。この部屋のことは心配なさらず、少し外の空気を吸いに行かれては?」
バッシュは椅子に座ったまま考え込んだ。
外の空気――そういえば、いつから自分はこの部屋に閉じこもりきりだっただろうか。
けれど、ヴァルを置いていくのは気が引ける。彼の静かな寝顔を見つめ、どう答えるべきか迷っていると、ふとトロントとエゾフの姿が頭をよぎった。
「ああ……トロントとエゾフの世話もあるし、少し見てきますかね」
バッシュは立ち上がり、軽く伸びをした。
「ロスベルトさん……お願いしてもいいですか?」
「ええ、もちろんですとも」
ロスベルトは微笑み、そっと頭を下げた。
「どうぞ、焦らずにお戻りください。こちらは私にお任せを」
その言葉に背を押されるようにして、バッシュは部屋を後にした。廊下を歩きながら、暖炉の火の温もりがまだ背中に残っているような気がした。