魔女のお願い
ソッロはエラの言葉に、一瞬、思考を完全に奪われた。耳に届いたはずの音が頭の中で形を成すまで、妙に時間がかかったように感じる。
「……オレに?」
ようやく言葉を絞り出したものの、声はかすれて頼りなかった。なぜオレなのか――その問いが心の中でぐるぐると回り続ける。
オレは獣人だ。それは事実だが、野蛮なことにはまるで縁がない。戦いどころか、武器の扱い方すら知らない。契約魔法師として、紙とペン、そして魔法陣に向き合う日々がオレのすべてだ。それが急に「殺す」だなんて。
目の前のエラの表情は冷静そのもので、何かを悟らせる隙すら見せない。そんな彼女の決意が、なおさらソッロを混乱させた。
「待て……何でオレなんだよ?」
声にわずかな震えが混じる。問いかけながらも、ソッロの胸には答えを知るのが怖いという感情がじわじわと広がっていた。
「ソッロ。正確には、貴方に私とセンペルの間に契約魔法を結んでもらいたいの。」
「けいやくぅ?」
「ええ。」
エラは窓辺に歩み寄り、外の王城を指差す。
「センペルは……塔を完成させるために、私の空間魔法が必要なのよ。」
ソッロは半ば呆れたように肩をすくめた。
「貸家魔女、あんたも素直に手を貸すほど落ちぶれちゃいねぇんだな。」
エラはその言葉に一瞬だけ目を伏せ、低く答えた。
「……私はただ、センペルに提示する交換条件をきちんと受け取りたいだけよ。」
「その交換条件ってのは、よっぽど大事なもんなんだろうな?」
ソッロの脳裏に、洞窟の扉のことがふっとよぎった。貸家魔女が貸していた扉を勝手に開けたなんて話は一度も聞いたことがない。それは、エラが借り手と扉の中身に対して深い興味を持たないこと、そして先代から受け継いだ仕事に対する誇りの現れだと思っていた。
そのエラが借り主に断りなく扉を開けたのだ。それを上回るほどの事情が、彼女の身に降りかかったのだろうか?
そういえば――とソッロは思う。
エラという魔女の個人について、オレは何一つ知らない。
沈黙を破ったのは、エラの震える声だった。
「……姪が。」
「姪?」
「姪のキランが、この塔に囚われているの。」
その言葉に、ソッロは息を呑んだ。
エラの言葉は、ソッロの心に鋭く突き刺さった。
「……冗談だろ?」
ソッロは無意識にそう口走ったが、エラの瞳に浮かぶ静かな光は、冗談を許すようなものではなかった。
「センペルが、私の力を利用するために彼女を人質にしているの。」
エラはまっすぐにソッロを見つめた。その瞳の奥には、覚悟とも諦めともつかない冷たい光が宿っている。
「姪はまだ幼い。彼女には何の罪もないのに、あのまま塔にいれば……必ずセンペルの道具として扱われているわ。」
ソッロは眉をひそめ、言葉を探した。
「でも……それなら、王国に訴えるとか、もっと別の方法があるんじゃないのか?」
エラはかすかに笑った。その笑みは、どこか悲しげで、それでいて冷ややかだった。
「ソッロ、貴方はまだ分かっていない。センペルは王国そのものを操っている存在よ。誰も彼を止められない。」
ソッロは言葉を失った。エラの声には嘘偽りがないことが分かる。だが、それでも――
「……だからって、オレに何ができるんだよ。」
エラは一歩、ソッロに近づいた。その動きに、ソッロは思わず後ずさった。
「貴方には、契約魔法が使える。」
「そりゃそうだが、それで何を――」
「私とセンペルの間に契約を結んでもらう。貴方に望むことはそれだけよ」
「お前、なにを考えてるんだよ――」
ソッロは頭を抱えた。契約魔法は厳格だ。
「無理だ……オレには荷が重すぎる。」
「ソッロ。」
エラの声が鋭く響いた。ソッロは顔を上げると、彼女の瞳に宿る揺るぎない決意を見た。その目は、ただの依頼人のものではなかった。
「貴方しかいないの。お願い、お願いします。」
ソッロはエラの言葉を受け止めながら、胸の中で渦巻く恐怖と葛藤を抑え込もうとしていた。
「……どうか、力を貸して。」
エラの声は震えていた。その震えが、単なる恐怖や焦りではないことにソッロは気がついた。
だが、彼女の瞳にはそれ以上の言葉を語る気配はなかった。
ソッロはその場の沈黙に耐えきれず、視線を逸らした。
「わかったよ……でもオレにできることなんて、本当に限られてるからな。」
エラはかすかに頷き、口を閉ざしたままだった。だが、その胸の内には、ずっと消えない光景が焼き付いていた。
シュヴァイツァーがアナスタシアに殺される光景。
あの時、自分が動いていれば――そう思うたびに、胸を抉るような後悔が蘇る。だが、エラは動けなかった。いや、動かなかった。
あの日速達で届いた手紙。
シュヴァイツァー名義で書かれたその文字は、どこか急いているようで、彼のいつもの穏やかな筆跡とは違っていた。
『キランに洋服を買ってあげたいんだ。角にある洋品店の前で待ち合わせよう。』
それだけの短い文面に、エラは胸騒ぎを覚えながらも、断る理由は見つけられなかった。キランの小さな手を握りしめながら、その洋品店の前に向かった。
だが、そこにいたのは――
血に染まったシュヴァイツァーと、冷たく笑うあの女。アナスタシアだった。
エラはその場に立ち尽くした。握りしめた手紙が震え、指先が痛むほど力を込めても、現実は何一つ変わらなかった。
「やぁ、エラ。お買い物の途中だったのかな?」
悪いねぇ。ご覧の通り道を汚してしまってね。背後から聞こえたセンペルの声。その声は、すべてを見透かしたような不敵な響きを帯びていた。
エラは理解した。
自分がとんでもない愚者で、センペルの罠に嵌められていたのだと。エラは拳を強く握りしめた。だが、姪がそばにいる。私は姪を守らなければならない。だから――だから自分は動かなかったのだ。
彼の命がこぼれ落ちる最期の瞬間を、ただ見ているしかなかった。