ニズルと永遠の妙薬
ヴァルの言葉に、ニズルはただ呆然と立ち尽くし、目の前で起きた現実を理解しようとするが、頭の中は混乱していた。
少し前まで、センペル様が自分に与えてくれたものは、ただの酒だと思っていた。
それが「永遠の妙薬」だなんて、得体の知れないものを飲まされていたなんて信じられなかった。いや、信じたくなかったのだ。
ヴァルは静かに続けた。
あの時、センペルに薬を飲まされ自らの首を絞め殺したあの奴隷の目をニズルの瞳に重ねていた。
「センペルの作った“永遠の妙薬”は、体の老化を止める。しかし、時間が経つにつれて、自然に逆らった力はお前の中で蓄積され、やがて精神を蝕んでいく。最初は気づかないだろう。だが、少しずつ……少しずつだ。お前は、自分を失っていく。」
ニズルはその言葉を飲み込むように、ゆっくりと耳を傾けた。彼の心の中に、冷たい恐怖がじわじわと広がっていくのを感じた。
「お前は今、もうすでにその影響を受けているんだ。」
ヴァルの声は、どこか悲しげでありながらも、確かな冷徹さを含んでいた。
「ニズル。お前が気づいていないだけで、お前はもうセンペルの一部になっているんだ。」
ニズルは震える手で顔を覆い、涙をこらえるようにして言った。
「そんな……オレは、ただセンペル様に……」
「センペルはお前に慈悲をかけたわけではない。」
ヴァルは静かに言い放つ。
「奴はお前を実験材料として使っただけだ。」
その言葉が、ニズルの心に深く突き刺さった。彼は無意識のうちに、手をグラスに伸ばしていた。だが、ヴァルの言葉が響く。
「その酒を飲んだことで、もうお前の体は戻らない。永遠に止まったまま、そして、やがて……お前は、誰でもなくなる。」
その瞬間、ニズルはようやく、センペル様が与えたものが単なる酒ではなく、恐ろしい代償を伴う「妙薬」であったことを、理解した。しかし、もう遅かった。
「いや、待てよ!老化を止めるならなんでこいつは17歳のままじゃないんだよ?」
バッシュが大きな声で疑問を口にした。
「そこまでのことは分からないが……おそらく継続的に飲み続けないと効果を保てないんだろう。効果が切れるとその間は時間が進む」
ヴァルはブルートに殴られた時に負った頭の傷を抑える。すると包帯の上からでも指の先が血で濡れた。血の止まりが悪い。
「ニズル。気がついていると思うが、お前の弟ももう人間じゃない」
「……!黙れ!」
その瞬間、ニズルの目が血走り、怒りに満ちた声がヴァルに向けられた。
「黙れ!お前に何がわかるんだ!?」
ロープで手を縛られたまま、ニズルは全身でヴァルに向かって突進し、ヴァルはその勢いを受け止めきれず、地面に倒れ込んだ。倒れた拍子に、ヴァルのまだ傷の癒えない頭が壁にぶつかり、鈍い音が響く。
「ふざけやがってお前……!」
ニズルは息を荒げ、ヴァルを見下ろす。
「ヴァル!?おい、やめろニズル!」
バッシュはニズルを取り押さえる。バッシュは咄嗟にリリアの方を見たが、リリアはそれを無視してただ腕を組んだままじっと見つめていた。
ヴァルはゆっくりと起き上がり、血がにじんだ額を手で拭うと、冷静に言った。
「お前の弟も……もう人間じゃない。ニズル。お前にはアレが、あの禍々しい姿が人間に見えるのか?」
ニズルはヴァルの言葉に反応できず、ただ自分の胸を激しく打ち続けた。幼い時の弟の顔が脳裏に浮かば。だが、今はどうだ?オレの弟はどんな顔をしている?
その顔はもう、何も思い出せない。思い出すことができない。ニズルの中で何かが壊れていく音がした。
「お前の弟も、もう……」
ヴァルは静かに続けた。
「お前が思っているような人間の姿じゃない。彼もまた、おそらくあの薬によって、変えられてしまった。」
ニズルは震えながら、声を絞り出した。
「違う!違う!オレは、オレは……」
その言葉が途切れ、ニズルは手を顔に押し当てた。醜男の目から涙がこぼれ、混乱と絶望が入り混じった。
その瞬間、ヴァルの目がわずかに揺れ、胸の奥から湧き上がる激しい疲労感に襲われた。頭が重く、視界がぼやけていく。
「ヴァル?」
バッシュが声をかけるが、その声も遠く感じる。
ヴァルはそのまま、倒れた。
ヴァルの体は無力に地面に崩れ落ち、意識が完全に途切れた。静寂がその場に広がり、ただニズルの荒い呼吸だけが響いていた。
第9章 ー終ー