全て嘘である。
全て嘘である。
センペル様があの女どもを連れて本当にあの塔に行ったかどうかなんて、オレは知らない。
だが、確率は五分五分であった。少なくとも、王都の何処かにいるのではないか、という願望にも似た予測をニズルはたてていた。
あの男だか女だかわからんヴァルとか言う奴の話ではブルートはセンペル様と一緒にいるようである。
どうしてセンペル様はブルートを連れて行ったのだろう?用心棒?いや、ブルートはニズル以外の言葉を理解しない。用心棒として使うならセンペル様のまわりにはいくらでも駒がいるだろう。たまたまか?それとも……。
ニズルの頭ではいくら考えてもわからなかった。
それはあとで考えるとして今はこの場を切り抜けて、この乱暴女からなんとか逃げ出し、そしてブルートを探してやらなくてはならない。
今頃オレがいなくて泣いているだろう。オレのただ1人の弟を、家族を、オレが守らなくては。
「とはいえ、お前の話も完全に信用していない。まずは私の部下に探らせる」
「お、おい!」
リリアが眉をひそめた。
何か思うところがあったらしく、腕を組んで疑惑の目をニズルに向けた。
「ところでお前の弟が事故にあったのは、どこの鉱山の話なんだ?」
ニズルはほっとした顔をして迷いなく答えた。
「鉄牙鉱山だよ。弟はあそこで魔鉱石を掘っていて、落盤が起きたんだ。」
その言葉に、リリアは目を細めた。
「鉄牙鉱山、だと?……そこは100年近く前に閉鎖されているはずだ。」
ニズルの表情が曇った。
「そんなはずはない。オレは、少し前まであそこで働いていたんだ。……体が採掘場に合わなくなって辞めさせられたけどな。」
「少し前って……いつなんだ?」
リリアが苛立ちを隠せず問い詰める。
ニズルは困惑した顔で考え込む。
「……えっと、確か……弟が事故に遭ったのがその直後だから……多分、数ヶ月前だと思う。いや、1年経ったのかな?……あれ?」
その答えに、リリアとバッシュが顔を見合わせる。リリアが冷たく言い放つ。
「その鉱山は100年前に閉鎖されているぞ。」
ニズルは目を見開いた。
「……嘘だろ?」
「嘘かどうかはともかく……」
バッシュが口を挟み、じっとニズルを見つめる。
「お前……前から思っていたが変だぞ。見た目はどう見ても中年なのに、言ってることが若い奴みたいだ。」
ニズルはムッとした表情でバッシュを睨む。
「何だと?オレはちゃんと若いだろっ!」
「わ、若い?若いってどのくらいだよ?」
「……何だその質問。オレは17に決まってんだろ!」
「……17?」
バッシュは思わず息を呑む。リリアが横目でニズルをじっと見据えた。
「ニズル。お前、鏡を見たことないのか?それともこの期に及んで冗談でも言っているのか?全然笑えないぞ。」
「何だよその言い方。オレが17じゃないって言いたいのか?」
「側から見りゃ、どう見ても中年だよ。」
バッシュが呆れたように呟く。
ニズルの顔に動揺が走る。
オレが、中年?
この小僧はなにを言っているんだ?
「そんな馬鹿な……オレは17だ……昨日まで、確かに……。」
「昨日、ねえ。」
リリアが低く呟く。
「お前、今が何年かわかってるのか?」
ニズルは戸惑いながらも口を開いた。
「……え?今は王暦806年だろう?」
その瞬間、場の空気が凍りついた。
リリアが静かに言った。
「違う。それは100年前の話だ。今は王暦918年だ。」
ニズルの顔が青ざめる。自分の小さな頭の中の記憶の道を辿る。オレたち兄弟はあの鉱山で働いていた。弟は落盤事故にあってそこでセンペル様に助けられる。
そのあとは……?
そのあと……。
「図鑑を……」 ニズルがぼそりと呟く。
「図鑑?」バッシュがニズルの小さな言葉を拾って繰り返した。
「オレは弟に図鑑を買ってやるんだ。オレは文字が読めない。でも弟は少しだけ、文字が読めるんだ。だから、オレは……」
ニズルは何かを思い出そうとするように眉間にしわを寄せた。
「……弟が喜んで、鉱山の帰りにオレに花の名前を教えてくれたんだ。あの時、センペル様が――」
突然、ニズルの顔が苦しげに歪む。
「いや……違う……それは……」
リリアが冷たく問いかける。
「おまえ……」
「……いや……わからない……!」
ニズルは頭を抱え込む。
「あの時、何が起きたんだ……?弟が……弟が……」
彼の声が震え始める。
「オレは……弟を守るために……あれ?あの時弟はどうなった?図鑑は……センペル様は……オレは何を……?」
ニズルの独り言は次第に支離滅裂になり、混乱が表情に溢れ出す。
「おい、落ち着け!」
バッシュが一歩近づいて声をかけるが、ニズルはその声をまるで聞いていないかのようだ。
「……あれは夢か?いや、現実だ……けど、なんで……なんで今ブルートがいないんだ……?」
ニズルは震える手を伸ばし、何かを掴もうとする仕草を見せたが、そこには何もない。
「リリア、これ……まずくないか?」
バッシュが低く呟く。
リリアは険しい表情を崩さずにニズルを睨みつけた。
「この男の記憶が混乱しているのは明らかだ。センペルが何をしたのか……もっと突き止める必要がある。」
「でも、あいつ自身も何が本当かわかってないんじゃないか?」
「それでも聞き出すしかない。」
リリアが言い切ると、ニズルに向き直った。
「おい、ニズル。センペルはお前に何をしたんだ?」
ニズルはその問いに答えられず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「オレはなにもされていない。ただ……」
「ただ?」
ニズルの頭の中で何故かグラスの中でゆらめく液体を思い出していた。無意識のままニズルは言葉を紡いだ。まるでほつれた記憶を縫うように。
「たまに……センペル様はオレに酒を奢ってくれた。」
その言葉が空気を凍らせた。暫くの間、言葉を発するのを辞めていたヴァルなニズルの方に視線を向けた。ニズルは少し間を置いて、遠くを見つめるように続けた。
「最初は、ただの酒だと思っていた。透明で、でも見る角度によって玉虫色のような不思議な色で、甘くて……。でも、飲んだ後、いつも時間が経っていることに気づくんだ。」
ニズルは目を閉じ、まるで何かを思い出すように言った。
グラスの中の液体は、見る角度によって色を変える不思議な玉虫色をしていた。光を受けて、時折深い緑色に、また別の瞬間には濃い紫に、そしてほんの一瞬、金色に輝く。それはまるで、物理的な法則を無視しているかのように、見る者の目を惑わせる。
透明さを持ちながらも、どこか濁って見え、まるで深い闇の中に潜むものを映し出しているかのようだった。
甘い香りが漂い、だがその奥に潜む腐敗したような重苦しい匂いが鼻を突く。最初は気づかないかもしれないが、次第にその香りが心を圧迫していく。
口に含むと、ほんのりとした甘さが広がり、次第に冷たさと共に喉を通り抜ける。その後に残るのは、どこか懐かしく、しかし不気味な温もり。まるで時間を飲み込んでいるかのような、奇妙で異常な感覚が広がる。
だが、ニズルはその感覚を感じ取ることなく、ただそれが酒だと信じて、無邪気にグラスを傾ける。
「その酒を飲むと、眠くなる。気づけば、時間が過ぎている。最初はただ酔っているだけだと思ってた。でも、ある日……」
ニズルは言葉を切り、俯いた。
……あの酒は、本当に酒だったのか?
彼の顔に浮かんだのは、困惑と恐怖の入り混じった表情だった。
「でも、センペル様は、いつもそれを飲ませてくれた。こんなオレに……センペル様は慈悲深い方なんだ。」
その時、ヴァルの目がわずかに揺れ、何かを思い出すように、また一度目を閉じた。そして、ヴァルは静かに呟いた。
「ニズル。それがあの男……センペルの作った“永遠の妙薬”なんだ」
哀れみ目をニズルに向けるヴァルのその言葉が、空気の中に静かに広がり、不穏な影を落とした。