覚悟と交渉
リリアは剣をゆっくりと構えた。その刃先はヴァルの胸元をわずかに指し、冷たい金属の光が彼の顔に反射している。
「それで、お前はそのアナスタシアという女を殺せるのか?」
低く響く声には、微かな嘲りと挑発が混じっていた。
ヴァルは答えなかった。喉の奥に引っかかる言葉が、重くて動かない。ただ、彼女の問いに向き合うことさえも、恐ろしく感じた。
「……」
「シュヴァイツァーの仇だぞ。わかっているのか?」
その沈黙がリリアの苛立ちを引き起こす。彼女は剣をわずかに揺らし、鋭い音を立てた。
「そうだろうと思ったよ」
リリアは冷笑を浮かべた。
「お前には無理だ。お前のような甘い男にはな」
ヴァルは歯を食いしばり、視線を逸らした。胸の奥で心臓が軋む音がしたが、それをどうすることもできなかった。
「いや、別に構わないさ」
リリアは剣を下ろし、冷ややかな目でヴァルを見下ろした。
「私の仇討ちの相手がわかった。それだけでも十分だ。礼を言うよ」
彼女の言葉は、刃よりも鋭くヴァルの胸を刺した。
「私がその女とセンペルを殺す」
リリアの宣言は、部屋の空気を凍りつかせた。彼女の瞳には、一切の迷いもためらいもなかった。
ヴァルは口を開こうとしたが、何も言えなかった。彼の迷いと躊躇は、リリアの冷酷な決断の前では無力だった。
「お前はせいぜい世界の片隅で邪魔にならんようにしているがいい。私が片をつける」
リリアは振り返ると、まずはこの男だと言わんばかりに剣を振り上げた。その刃には迷いが一切ない。ニズルの首元に迫るその冷たい輝きに、彼の顔から血の気が引いた。
「ま、待て! 待ってくれ!」
ニズルは両手を必死に振り回しながら叫んだ。
「殺すな! オレの話を聞いてくれ!」
リリアの動きが一瞬止まる。その瞳はなおも冷たく、ニズルをただ無価値な存在として見下ろしている。
「……何を言おうと、お前の命はここで終わる」
彼女の声には微塵の情も感じられない。
「いや、違う! お前たちが探してるセンペル様と、その女だ! わかるぞ! 居場所を!」
ニズルの声が震えながらも続いた。
その言葉にリリアの腕はぴくりと止まった。
「王国にできた巨大な塔……アンタも騎士様なら知ってるだろう? たぶんそこにいるはずだ! オレはその塔のことをよく知ってる! 案内させてくれ!」
その言葉にリリアの剣が止まった。刃先がニズルの喉元で静止する。
「……あの塔は王と近衛兵しか近づけないはずだが?」
リリアの眉がわずかに動いた。
「そうだ! あ、いや……オレはその、センペル様に頼まれて塔の出入りをしていた――あの女も、センペル様も、とにかく全部だ! オレは塔の中のことをよく知っている!そんなオレを殺すのか!!」
ニズルは身を震わせながら必死に訴えた。
「それに、あのセンペル様が連れてきたもう一人の女……怪しげな術を使う女と、その女のガキもいる筈だ!」
「怪しげな術?」
リリアの眉がピクリと動いた。彼女はしばらく男を見下ろし、冷たい視線を注いだまま、剣をゆっくりと引いた。
「センペルが連れている魔女……貸家魔女のことだ。」ヴァルが補足する。
「はっ!千年も生きている優柔不断男に、自分の身体を取っ替え引っ替えする化け物、それに死んで生き返った女――次は魔女か!」
リリアの嘲笑混じりの言葉に、周囲の空気が一層冷え込む。
「政を行う王都に魔術を使う者を仕えるなど、最大の御法度だというのに……センペル。ようやく隙を見せたな」
リリアは一歩前に踏み出し、剣先をわずかに持ち上げた。
「助けてくれるなら、オレがアンタをセンペル様のところまで案内してやるよ。」
「……もし嘘なら、次はないと思え。」
その声は氷の刃のように冷たく、鋭い。男の顔から血の気が引くのが見て取れた。
「わ、わかってる! 嘘なんかつくもんか!」
ニズルは額の汗を拭いながら、ひきつった笑みを浮かべた。
「リリア、本当に信じるのか?」
後ろからヴァルが声をかける。
「別に信じる必要はない。だが、利用する価値はある」
リリアは冷ややかにそう言い放ち、剣を鞘に収めた。
「案内しろ。お前が役に立つかどうか、すぐにわかる」
彼女の命令に、ニズルはうなずきながら立ち上がった。その姿はまるで命拾いしたばかりの虫のように弱々しかった。
「キラン……」
バッシュが呟いた。その声は掠れ、胸の奥に広がる不安を隠せなかった。
目を閉じれば、センペルに抱えられ、ぐったりとしたキランの姿が浮かぶ。小柄な体が力なく垂れ下がり、まるで意識すらないかのようだった。その光景を思い出すたび、胸がギュッと締め付けられるように痛む。
どうしてセンペルはキランを連れ去ったんだ?
何のために……?
バッシュの疑問をよそに、リリアが冷ややかな声を投げかける。
「あの変態とシュヴァイツァーの養女が一緒にいるのか?……ろくなことに使われないだろうな」
その言葉が、さらに胸に重くのしかかる。キランがただの道具のように扱われる未来を想像するだけで、胃の奥がひりつくような感覚がした。
途端に周囲の音が遠くなる気がした。
バッシュの心の中ではただひとつの思いだけが響く。
肩から掛けたバッグの中には、人魚のヴァルナから託された鱗が入っている。その冷たく滑らかな感触が、バッシュの指先をかすめるたびに、あの海を超えて空を飛んだことを思い出させる。
ヴァルナは、友の夢を叶えるために魂をかけた。
すべてを託してくれた。
そして夢を叶えてくれた礼だと言ってバッシュに自分の鱗の使い道を教えてくれた。ヴァルナが己の体の一部を道具として使われることも厭わずに、託した鱗を使い、キランの声を取り戻してやれるかもしれないと教えてくれた。
キランの喉に刻まれた傷が、バッシュの脳裏に浮かぶ。シュヴァイツァーはそれがかつて奴隷商につけられた傷だと言っていた。どれほどの怖かっただろう。
あの時、センペルに抱えられて運ばれていったキランの姿。無力に見えた彼女の顔が、胸を締め付けるように痛んだ。傷つけられた喉が、彼女の声を奪った。
声を……取り戻してやりたい。
その思いが、バッシュの胸の中で膨らんでいく。彼女が再び、自由に声を発することができるように。そのために、どんな手段を使おうとも、恐れずに進まなければならない。
バッシュはバッグの中の鱗を感じながら、目を閉じた。
キランを救う。
それができるまで、俺は諦めない。
その思いが、心の中で固く誓われる。迷いはもうなかった。
「必ず……キランを取り戻す。」
その言葉が、静かな部屋の中で響き、バッシュは決して揺るがぬ決意を胸に抱いて、前に進むべき道を見定め始めていた。