湖畔の儀式
戦火の記憶が薄れ、人々の生活が静かに戻りつつある頃、リリアはあの修道院を訪れた。
春の暖かな日差しが、かつての荒れ果てた大地に新たな命を吹き込んでいる。風は穏やかで、木々の緑が一層鮮やかに映えていた。遠くには、まだ雪を抱いた山脈が静かに広がり、その背後には春の陽光が輝いている。
凍りついていた湖は、今ではその面をすっかり解かれ、いくつかの漁船が穏やかな水面を漂っていた。湖の水面は、波ひとつ立たず、鏡のように空を映し出している。リリアはその光景を静かに見つめながら、あの場所に足を踏み入れたときのことを思い出していた。戦争の傷跡がまだ残るこの地にも、確かな変化が訪れていた。
修道院の門をくぐると、懐かしい石の壁が迎えてくれる。その静けさは、まるで時が止まったかのように感じられた。しかし、今はその中に温かな風が吹き込んでおり、昔とは違う空気が漂っていた。
リリアはゆっくりと歩きながら、修道院の中に何を求めているのか、自分でもわからないまま進んでいった。
リリアが湖を静かに見つめていると、背後から声がした。
「……おや。先客がいらっしゃいましたか?」
振り返ると、そこにはかなり年老いた牧師が立っていた。その隣には、どこか見覚えのある男がいた。彼は少し疲れたような表情を浮かべていたが、その鋭い目つきと態度には、あの冬の日の記憶が鮮明によみがえるような威圧感があった。
ーーーーシュヴァイツァーだった。
「なんでアンタがここに……!」
振り返ったリリアの視線の先で、シュヴァイツァーが驚きと困惑を露わにしていた。その鋭い目つきは変わらないが、かつての若々しさが混じっている。
「な……シュヴァイツァーか!?」
リリアは一瞬、彼の姿を凝視した。その瞳には驚きが浮かんでいるものの、声を発することもできず、ただその場に立ち尽くす。
シュヴァイツァーは眉をひそめ、苦々しい表情で牧師に視線を向けた。
「どういうことだ? こんな場所で会うなんて、しかも儀式前に……悪い冗談だろ。」
司祭は静かに微笑むだけで何も答えない。その沈黙がさらにシュヴァイツァーを苛立たせたのか、彼は短く舌打ちし、再びリリアに向き直った。
「オイ、リリア団長殿。いや、今の階級は知らんが……脱走兵のオレを捕まえに来たのか?」
その声には、わざとらしい皮肉と警戒が滲んでいた。
「それなら悪いが、話はあとにしてくれ――」
彼が言葉を続けようとしたその時、司祭の朗らかな笑い声が湖畔に響いた。
「ほっほっほっ!私の後継者がこんな素敵な軍人さんだとは!」
その言葉に、シュヴァイツァーの顔が一瞬で強張った。彼は驚きのあまり声を失い、そして慌てて司祭の方を振り返った。
「なっ……!司祭様!」
シュヴァイツァーはまるで信じられないものを見るように司祭を睨みつける。
「そんなまさか!後継者って……現れるのは必ず子供だって話じゃないですか!それが、こんな……ありえない!」
シュヴァイツァーの声には動揺と困惑が混ざっていたが、司祭はまるで意に介さず、穏やかに微笑みながら言葉を続けた。
「シュヴァイツァー君、神明様の計画は常に完璧なのです。」
その静かな一言に、シュヴァイツァーは押し黙った。司祭の言葉には、抗いがたい力が宿っていた。
一方で、リリアはそのやり取りを理解できずに、ただ立ち尽くしていた。彼女の瞳には、困惑の色が浮かんでいる。
「……後継者?」
思わず口にしたその言葉が、湖の冷たい空気に溶け込むように消えた。
司祭はその声に振り返り、リリアを優しく見つめた。彼の瞳には、彼女の全てを見通しているかのような静かな光が宿っている。
「そうです、軍人さん。あなたには、大切な役目を果たす運命があるのです。」
その言葉に、リリアは息を呑んだ。大切な役目――その言葉が何を意味するのか、リリアには全く分からなかった。
「司祭様。失礼を承知で申し上げますが私にはなんのお話をされているのかさっぱり……」
司祭は穏やかに微笑みながら、リリアの言葉を遮るように静かな声で言った。
「ともあれ、時間がないのも事実。ここは説明を省いて申し訳ないが、先に儀式を始めさせていただきましょう。……詳しい話はその後に。」
そう言うと、司祭は袖を軽く払うようにして骨ばった指を広げた。その瞬間、どこからともなく柔らかな光が灯り、空気が震えるような感覚が広がった。光の中から現れたのは、古びた杖だった。美しく彫刻が施されたそれは、見ているだけで神聖な力を感じさせるようだった。
杖を手にした司祭は、湖へと一歩進み出る。その動作には無駄がなく、しかしどこか厳粛さが漂っていた。彼が静かに口を開くと、古い言葉が低い声で紡がれる。
「大いなる神明よ、この地に巡る魂を見守りたまえ。時を超え、命を織り成す祈りを受け入れたまえ。」
司祭の声が湖面に響くたび、古代の言葉が次々と紡がれる。それは耳に馴染まぬ響きでありながら、不思議と心の奥深くに染み込んでいく。
リリアは思わず息を呑んだ。
目の前で繰り広げられる光景は、彼女がこれまで見たどんな戦場の魔術とも違っていた。
司祭は杖をゆっくりと掲げ、さらに一歩進む。湖面に浮かぶ光が彼の周囲に集まり、柔らかな輪を描いていく。その光はやがて形を成し、透明な花びらのように舞い上がった。
「さあ、眠れる魂よ。神明のもとへ還り、安らぎを得たまえ。」
その言葉と共に、光の花びらは湖面へと沈んでいった。
湖の表面が静かに波打つと、やがて水面から一筋の光が天へと昇り始めた。その光は空高く昇ると、やがて湖を映すような淡い青と銀の光彩を帯びた雲となり、ゆっくりと形を変えていく。
空に広がったその雲は、まるで湖面に浮かぶ波紋のように揺らめきながら、次第に文字を描き出した。
「番人の命、ここに尽きたり。
その魂、永き眠りへと還る。
この湖を守りし者よ、安らぎの中に。」
文字は揺れる湖面を映し取ったかのように、淡く輝きながら空に浮かんでいた。風に乗って穏やかに流れるその光景は、見上げる者の心に深い静寂をもたらすように思えた。
眼前で広がる不思議な光景にリリアはようやく絞り出すように、低く呟いた。
「……なんだ、これは……!」
リリアのその言葉に司祭は微笑んだまま、何も答えなかった。ただ静かに杖を手にしたまま、湖の方へと目を向けていた。