泥に汚れた雪の道
リリアの意識が薄れる中、肉体がただ沈んでいくような感覚に包まれていた。
心の奥底で、もう全てが終わればいいと願っていた。
深い闇に落ちる前に、彼女はその思いを抱えたまま、全てを放り出すつもりだった。しかし、意識の中でその思いが強くなると同時に、突然、強い揺れが感じられた。
リリアは体がふわりとした浮遊感に包まれていた。目を開けると、目の前に広がるのは男の背中。その温もりがリリアの意識を急速に現実へと引き寄せていった。
彼の呼吸が荒く、胸が大きく上下しているのが背中越しに伝わってくる。息が切れ、足音が急かすように氷を踏みしめる音が響く。リリアはその揺れを感じながら、ゆっくりと自分の状況を理解しようと言葉を紡いだ。
「……なんだ……?ここは、なぜ、なぜ私は、生きている、のか?おまえは……」
リリアはかすれた声で呟く。彼女の心はもうすでに諦めの色を帯びていた。だが、男は決してその言葉を許さなかった。
「団長殿……頼むからいまは黙ってくれ」
彼の声は冷たく、鋭く響く。
「あんたは死なせない。絶対に。勝手に約束させられたからな!オレだって、やりたくない!」
周囲の音が消え、世界が静寂に包まれる。リリアの目の前で、時間が凍りついたように感じられた。リリアの心臓が、鼓動が、全てが止まったかのような感覚に陥る。
その時、突然、後ろから爆発音が鳴り響いた。
「――ッ!」
リリアは驚き、体が一瞬、強く震える。耳をつんざくような音が、彼女の心臓を激しく打ち、反射的にその音の方向を振り向こうとしたが、体は動かない。
爆風が背中越しに感じられ、肩が強く揺れる。その揺れが、彼女の意識をさらにぼんやりとさせた。
「これは……現実か?」
リリアは震える声で呟く。
だが、答える者はない。
体に感じる力強い肩、荒い呼吸の音、氷を踏みしめる足音――それらがすべて、リリアを今世に引き寄せるように続いている。
「なんだこれは。ちがう、こんなことは……」
リリアは頭をかすかに動かし、再び周囲を確認しようとしたが、目の前はぼやけていた。冷たい風が頬をかすめ、氷の上を走る感覚が強く伝わってくる。だが、誰が自分を背負っているのか、その顔を確認することはできない。
ただ、背中に感じる温もりと、必死に走る足音だけが、リリアの心に強く刻まれていた。
その瞬間、爆発の余波が再び響き、氷の上で何かが崩れる音がした。リリアはその音に反応し、さらに深く背負われている男の肩にしがみついた。だが、彼が誰なのかを知ることはできなかった。
「やめろ……なんだこれは!?やめろ」
リリアは突如として暴れるように叫びながら、男の背中から無理やり降りようと暴れまわり、無様に雪の上に転んだ。そこはもう湖の氷の上を超えて、木々の生い茂る対岸の森林だった。
湖の中で燃える魔鉱石式爆薬の煙の先に修道院が見える。
体が震え、足元がふらつく中で、何とか地面に足をつけようと必死になった。だが、その足はすぐに雪の上で滑り、力を入れても体は思うように動かない。
「はなせ!はなせ!」
リリアは叫びながら、男に掴まれた腕を引き離そうとするが、男の手は彼女をしっかりと背負い続け、動こうとしない。
「行ってどうなる!?」
「行かせてくれ……!お願いだ、奴らと死なせてくれ!そうでなくては……なんの意味が……っ!」
その声は、もはや悲鳴のようだった。リリアは必死に男の手を振り払おうとしたが、力が入らず、ただ無様に手を振るだけだった。自分の足が汚れた泥雪の上で滑って、もう一度転びそうになるが、男がその瞬間、手首を掴んで引き寄せた。
「だめだ、リリア団長殿!」
男の声が冷静に響くが、リリアの耳にはそれが届かない。
「お願いだ、もう……」
リリアは涙をこぼしながら、男にしがみつくように手を伸ばすが、その手が空を切る。
「死なせてくれ……!」
叫びながら、リリアは体を震わせ、無理やり男の腕から抜け出そうとする。その姿は、まるで崩れ落ちるように、必死で無様だった。リリアの体はもう動かず、ただ震えるばかりだった。その姿は、絶望に満ちていた。
「……行かせない。あいつらと約束したんだ。リリア団長を逃してやって欲しいってな……」
その声にリリアがふっと顔を上げると、目の前に自分を背負っていた男の顔があった。
その顔には疲れが浮かんでいる。中年を過ぎたように見えるが、言葉の端に若さが滲み出ているような気がした。
リリアがシュヴァイツァーの顔を見つめると、彼の顔に浮かぶ変化に驚かずにはいられなかった。
その目は冷静さを保ちながらも、焦りと必死さを隠しきれずにいたが、リリアが感じたのはそれだけではなかった。
「いつまでも甘ったれるな。行くぞ。……あんたの部下の死を無駄にしないためにも」
その言葉が胸に突き刺さると同時に、リリアは改めて男の顔をじっと見つめた。
その顔には、わずかに白髪が混じり、頬のしわも目立つようになっていた。
コイツ、こんなに老けていたか?
思わずリリアは自分の頭がおかしくなったのかと自問した。最初に会った時、シュヴァイツァーはまだ黒髪で、確かに年齢は自分よりも少し上くらいに見えたはずだ。
それが今では、どう見ても40代程度の年齢に見える――いや、それ以上かもしれない。
その変化は、まるで時間が彼を無理に引き寄せたような印象を与えていた。
年齢を感じさせるその変化に、リリアは驚きと共に疑問を抱いた。
「お前、シュヴァイツァー、なのか……?」
その時、リリアの目の前でシュヴァイツァーの手が一瞬、震えたのが見えた。シュヴァイツァーはすぐにその手を強く握り直し、再び力強く歩き出す。
その背中を見ながら、リリアはその変化の理由を知る由もなかった。
リリアを助けるためにシュヴァイツァーは時間を停止させる懐中時計を使った。それはシュヴァイツァーが懐中時計を使用するたびに、彼の外見は変化していた。
時間を止めるその魔法の副作用で、止めた時間の人数分シュヴァイツァーの体が時間を背負うのだ。それは彼の体に刻まれた年輪として、老化現象として現れていた。
だが、リリアはそのことに気づくことなく、ただシュヴァイツァーの背中を見つめていた。その先に続く泥に汚れた雪の道と共に。