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番人の葬儀屋  作者: あじのこ
第9章 魂の系譜
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救済

切り立った崖が鋭くそびえ立ち、狭い入江を囲んでいた。


雪に覆われた大地と凍りついた海が境界を曖昧にし、白銀の静寂が世界を支配している。入江を背に佇む修道院は、風雪に耐え続けた石造りの威容を放ち、その孤高の姿は自然の厳しさの中に宿る神聖さを物語っていた。


リリアは修道院を背にして山々とその裾野に広がる深い森林を見つめた。雪に覆われた山肌は曇天の下で鋭い稜線を浮かび上がらせ、森林の針葉樹は雪の重みで枝を垂らしながら、静寂の中に沈んでいる。


だが、その静けさの奥、風に紛れて微かな足音が響いた。雪を踏みしめる無数の音。それは敵が山脈を越え、この地に迫りつつある確かな気配だった。


リリアは冷たい風を吸い込み、腰に吊るした剣の柄に手を伸ばした。

その剣――「聖剣サンクティス」は、悪魔さえも斬り殺せるという伝承を持ち、代々受け継がれてきたものだった。今は亡き兄から託された、大切な剣。兄はあの時、自分に何を期待していたのだろうか。


リリアは剣の冷たい感触を指先に感じながら、ふと自嘲の笑みを浮かべた。


(悪魔をも斬れる聖剣だとしても、私の中の悪魔を滅することはできなかったな……)


その言葉は雪に吸い込まれ、消えた。兄には、謝らなくてはならない。こんな大事な剣を託されたのに、返すこともできないまま死ぬことを。弱さを。


(死んだら、せめて兄の枕元に立って詫びなくてはならないな……)


リリアは静かに目を閉じた。

聖剣の重みが、いつも以上に心にのしかかるようだった。それでも、握る手を離すことはなかった。迫り来る気配に耳を澄ませながら、彼女は来るべき時を待っていた。


「……リリア団長、ここはお下がりください。」


歳を重ねた穏やかな声が、冷たい空気に溶け込むように響いた。


「トーマス。ここに来てそんな配慮はいまさらだな。」


リリアは視線を正面に向けたまま、兵士の言葉を無視しようとした。


「団長殿、勘弁してくださいよ。」


別の声が横から割り込む。あの声はヤンか。振り返ると、髭を霜に染めた老兵が肩をすくめながら苦笑していた。


「敵が来て、いきなり団長殿が死んじまったら、俺たちの死に様が台無しになるじゃないですか。」


「……台無し?」


リリアは眉をひそめたが、老兵は笑みを崩さない。


「そうですよ。俺たちはここで『古参兵の意地』ってやつを見せるつもりなんです。それが団長殿が真っ先に倒れちまったら、どうにも締まりが悪い。」

「その声はハンスか。くだらん。」


リリアは呆れたように吐き捨てたが、別の兵士が口を挟む。


「くだらないかもしれませんがね、団長殿。ここから先は俺たちには団長を守るくらいしか、もうやることが残ってないんですよ。」


その声は穏やかだったが、どこか揺るぎない覚悟が滲んでいた。


「俺たちみたいな年寄りには見せ場が必要ですよ。ここは俺たちに任せてください。」


リリアは彼らの顔を見渡した。風雪に耐え抜いた岩のような表情。その中には恐れはなく、ただ静かな決意だけがあった。


「……お前たちが退路を断つのは、傷病兵の退避のための時間稼ぎのためだ。」


リリアの言葉に、兵士たちは頷いた。


「ええ。だからこそ、団長殿には後ろで見届けてもらいたいんです。俺たちの最後の戦いを。」


短い沈黙が流れた。リリアは唇を引き結び、迷うように視線を落とす。だが次の瞬間、兵士の一人が軽口を叩いた。


「まあ、団長殿が後ろに下がるってんなら、俺たちも少しは格好つけられますしね。」

「ルーカスはこの期に及んで格好つけるつもりか……まぁ一理ある。」


リリアは兵士たちの前に立ち、冷たい風に髪を揺らしながら、ゆっくりと後ろに下がり始めた。だが、その足取りは決して弱くはなかった。むしろ、後退しながらも、彼女の姿勢はますます堂々とし、兵士たちの目をしっかりと捉えた。


「聞け、この老頭兵共!」


彼女の声は冷徹な風に乗り、戦場に響き渡った。周囲の兵士たちは一瞬、息を呑んだ。その鋭い言葉に、ただの命令口調以上の力が込められていることを感じ取ったからだ。


「主を失い、行く先を見失ったお前たちに、戦乙女リリア・ルクレティアが誉れの場所を用意してやった!」


リリアの言葉は、兵士たちの胸に突き刺さる。彼女の声には、厳しくも誇り高い響きがあった。彼女は後ろに下がりながらも、戦場の最前線で戦う者たちに、その強い覚悟を伝えていた。


「我が元で命を散らす者には、神明の祝福と永遠の安らぎを必ず与えよう!」


その言葉が兵士たちの心を打つ。死を覚悟した者たちにとって、リリアの言葉はただの激励ではない。彼女の信念が込められた言葉は、彼らの心に確かな光を灯した。


「胸を張れ、そして……安心して死ね!」


リリアはその言葉を最後に吐き出し、顔に一瞬の微笑みを浮かべた。兵士たちはその言葉に応えるように、頷き、背筋を伸ばした。


敵兵の喊声が、どこか濁った音色を帯びて雪原を揺らした。


風がそれを拾い、修道院の壁にぶつけるたびに、冷たい石造りの建物がまるで呻いているかのように響いた。空は灰色に垂れ込め、雪は止むことなく降り続けている。血の気を吸い取られたような景色の中で、戦いの始まりを告げる音が、ただ冷たく、ただ無慈悲に迫ってきた。


「……来たぞ」


誰かが呟いた。声は低く、疲れ切っていた。盾を構える手は震えていない。いや、もう震える力さえ失っているのだろう。


遠くに黒い影が見えた。敵兵たちが雪を蹴り、荒涼とした地面を蹂躙しながら迫ってくる。その姿は人間というよりも、飢えた獣の塊に見えた。怒号や戦いの雄叫びさえ、どこか現実離れしていた。


矢が空を裂き、雪原に突き刺さる。音は鈍く、湿った音が混じる。木製の盾に当たる矢の音は、割れた音叉のように耳障りで、兵士たちの間に静かな絶望を引き伸ばした。


敵の突撃が始まった。

雪原が地鳴りを上げる。


だが、その地鳴りさえも、どこか遠く、まるで世界全体が悪夢に飲み込まれているようだった。


最前列に立つ老兵が、槍を振り上げた。敵兵の一人が突き出した刃をかわし、その槍を喉元に突き刺す。鮮血が飛び散る。だが、血は雪の上に落ちるとすぐにその色を失い、ただ汚れた水のように溶けていった。


老兵の肩口に斧が振り下ろされる。骨が砕ける鈍い音がした。老兵は一言も発することなく、その場に崩れ落ちる。顔を伏せたまま、彼の体はまるで人形のように動きを失い、血が雪にじわりと染み込んでいった。


リリアは動じることなくその場で防御姿勢を取る老兵たちの背中を見つめる。リリアは聖刀の柄を握りしめた。その剣は、神明に祝福されし聖なる武器。


だが今、彼女の手の中でそれはただの鉄の塊に思えた。


「……これで、ようやく」


リリアはそう思った。


今日も死ぬことは叶わなかった。明日も同じだろう。そう思いながら過ごす日々は、まるで尽きることのない梯子を登るようだった。


いつ終わるとも知れない苦痛の中で、ただ終わりを夢見て歩き続けるだけの日々。しかし、今この瞬間、その梯子の頂きが見えた気がした。


死はリリアにとって、逃避ではなく救済だった。


苦悩からの解放、罪の清算、そして永遠の安らぎ。終わりが近いと感じたとき、不思議と胸の奥に広がったのは安堵だった。


生きる者も、死ぬ者も、みな同じ灰色の雪に覆われていくのだ。

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