希望の灯火
湖の氷の上に乗せられた傷病兵を乗せたボートは、ゆっくりと轢かれていった。この辺一帯の今年の冬は異常に厳しいという話だったが、それでも氷の強度がどれほど持つかは誰にもわからなかった。
兵士たちはその不安を胸に、ひとしきり静かな緊張感を漂わせながらも、次第に行動を開始した。
辺境伯の元にいた老兵士は、雪国での生活に長けていた。
満身創痍の体でありながらも、身軽に動き回るその姿には、長年の経験がにじみ出ていた。残された漁船の底に板を取り付け、簡易なソリを作り上げると、周囲の兵士たちは歓声を上げた。氷の上での移動に一抹の希望を見出したその瞬間、兵士たちの間に少しずつ活気が戻った。
最初はおずおずと氷の上を歩いていた兵士たちも、次第に慣れていき、氷の上に踏み出す足取りが確かなものになっていった。シュヴァイツァーの部隊がその後ろをついていく。彼の目の前には、リリアの部隊がボートを牽引するために並んでいた。彼らはお互いに声を掛け合いながら、氷上での一歩一歩を慎重に踏みしめていった。
シュヴァイツァーはその光景を見つめながら、胸の中で何度も自問自答していた。
これで本当に全員が無事に渡れるのか?
いまここで氷が割れたら、どうする?
だが、そんな不安を口にすることはできなかった。彼はただ、部隊の先頭を歩きながら、慎重に足元を確かめて進んでいった。後戻りできない。
氷の上に広がる静けさの中で、兵士たちの足音が一つ一つ響き、次第にその響きが力強さを増していった。
渡河を果たすと、兵士たちは一様に倒れ込んだ。極度の緊張と不安、それに体の芯を凍らすような気温に、彼らは押しつぶされそうになっていた。氷の上での移動が無事に終わったことに安堵しつつも、誰もがその体力を使い果たしていた。
シュヴァイツァーはその中からリリアを見つけると、思わず駆け寄った。彼女と目が合うと、生き残った喜びを分かち合いたかった。しかし、リリアの顔にはどこかしら生への喜びを拒絶するような冷徹な表情が浮かんでいた。
シュヴァイツァーはその表情に一瞬言葉を失った。リリアの目の奥にあるのは、ただの疲れや苦しみではない。シュヴァイツァーはその沈黙を破ることができず、ただリリアの顔を見つめるしかなかった。
それは、長い戦いと絶望に耐え続けた末にたどり着いた、深い空虚感だった。彼女の瞳の中に浮かぶのは、もはや生きる力ではなく、無力感と虚無が支配しているような、人生への諦観だった。
突然、遠くの修道院の方から煙が立ち上がるのが見えた。最初は微かな煙の筋が風に流されているだけだと思ったが、次第にその煙は濃く、黒くなり、空を覆い始めた。
「あれは…?」
兵士たちの間にも不安の声が広がる。煙は修道院の建物から、まるで火が放たれたかのように急速に立ち上っている。風に乗って、まるで炎が拡大しているかのように見えた。
修道院から立ち上った煙は、ただの煙ではなかった。
シュヴァイツァーは瞬時にそれを認識した。煙の色と流れから、それが発煙筒であることを理解したのだ。遠くから見える小さな光とその煙は、兵士たちの目を引き、次第にその意味が広まっていった。
リリアは、無表情で煙を見つめていたが、その顔に一瞬の変化が走った。まるで長い暗闇からようやく光が差し込んだかのように、表情がぱっと明るくなった。しかし、その明るさは一瞬だけで、すぐに冷徹な沈黙に戻った。
シュヴァイツァーはその瞬間、リリアの表情に違和感を覚えた。喜び、安心感、または解放のようなものが一瞬だけ浮かんだその顔。
「リリア団長、殿…?なぜまだ向こうの岸に兵士を残しているんだ?そういえば……魔鉱石式爆薬はどうした?」
シュヴァイツァーは思わず声をかけたが、彼女は何も答えなかった。代わりに、彼女はゆっくりと振り返り、遠くの煙を見つめたまま口を開いた。
「修道院に戻る。」
シュヴァイツァーはその言葉を聞いて、ようやく気づく。
リリアは、あの煙を上げることで、あらかじめ計画していたのだ。敵が近づいてきた時、戻るための合図として。
そして、シュヴァイツァーは気づいた。リリアは、もう生きていることに意味を見いだしていないのだ。彼女が死にたがっていることを、彼は今、初めて理解した。
その瞳に浮かぶ冷徹さ、無感情なその表情は、ただの決意ではなく、死を求める心の表れだった。