老頭兵
シュヴァイツァーは脱出の準備を進めながら、ふとリリアの部隊の兵士たちを目にした。
彼らは皆、年齢は若くても四十代に達しており、そのほとんどが満身創痍の様子だった。
包帯で覆われた手や足、傷ついた鎧。どの顔にも疲労と痛みが刻まれていたが、それ以上に彼らの目には、奇妙な静けさと覚悟が宿っていた。
「あんたらこんなところにいないで、さっさと逃げればいいだろう。」
シュヴァイツァーは兵士たちに向かって声をかけた。自分の正直な気持ちだった。これ以上の犠牲は無意味だと感じていたからだ。
「はっはっ。それは医官殿も同じであろう?」
見かけによらない快活な笑い声と共に兵士の一人――顔に深い皺が刻まれた老兵士が、ゆっくりと振り返った。
「我々は……主である辺境伯の亡骸を置いて逃げてきたのだ。」
降る雪が春まで溶けないあの土地で、次男三男に仕事を与えるために兵士にしてくださった辺境伯様を。その声には、深い後悔と自嘲が混じっていた。
「あの時、我々の魂は死んだのだよ。」
シュヴァイツァーは言葉を失い、老兵士の言葉が胸に重く響いた。しばらく黙っていると、別の兵士がふいに尋ねた。
「医官殿の故郷はどんなところだ?」
突然の問いに、シュヴァイツァーは答えを探したが、何も言葉が出てこなかった。彼は質問の意図がわからず、ただ黙っていた。そんな彼を見て、老兵士は続けた。
「オレの故郷は、ここよりも雪が深く、冬が厳しい場所だ。この部隊の兵士はみんなそうだ。」
老兵士は少し間を置き、遠くを見るような目で語り始めた。
「雪深い故郷では、誰か一人でも役割を放棄すれば、村全体が凍える。主を守れなかった者がどうなるか、わかるだろう?だから、オレたちはここで死ぬ覚悟を決めた。故郷には帰れない。家族や村がどうなるか、考えたくもない……。」
老兵士は視線を落とし、握りしめた拳に力を込めた。
「生きて恥を晒すより、死んで国のためになる方がいい。オレの墓標に英雄と刻まれる方が、ずっとずっといいんだ。」
その言葉には、悲壮な決意と誇りに似た何かが込められていた。老兵士の目は遠くを見ているようだった。
シュヴァイツァーは老兵の言葉に、思わず眉をひそめた。
「死んで国のためになる方がいい」――その言葉が、シュヴァイツァーの胸に重く響いた。
確かに、戦場では命を捧げる覚悟が必要だ。しかし、この老兵の言葉には、どこか現実味が欠けているように感じられた。
自分の命を投げ打って傷病兵を救出することが、本当に国のためになるのか?
老兵の目は、遠くの雪原を見つめたままだった。
この人は、軍隊に長くいすぎたのだろうか?
彼の思考は、すでに一般社会の感覚から完全に隔絶されてしまっているのかもしれない。
戦争の中で、命を捧げることが美徳とされ、国のために死ぬことが誇りだと信じている。だが、シュヴァイツァーにはその信念がどうしても理解できなかった。
本当に、死んで国のためになるのだろうか?
シュヴァイツァーは老兵の目を見つめ、心の中で問い続けた。彼の視界に映るのは、ただ雪と血と痛みだけだった。
「……あんたにも家族がいるんだろう?」
シュヴァイツァーがそう問いかけると、老兵士は少しだけ笑って帽子を脱いだ。シュヴァイツァーに帽子の中を覗かせた。すると帽子の裏には幼児が書いたであろう落書きが一枚縫い付けられていた。
「ああ。子どもが五人いる。お恥ずかしいが、末っ子はまだ妻の腹の中だ。……今年の春に生まれるだろう。」
その声には、不思議なほどの落ち着きがあった。だが、その落ち着きの中には、誰にも言えない覚悟と、家族への深い愛情がにじんでいた。
「……医官殿、あんたを見込んでひとつ頼まれごとをしてはくれんかね。」
老兵士は、まるで重い石を胸に抱え込んでいるかのように、ゆっくりとシュヴァイツァーに向かって言った。その声は冷静でありながらも、どこか微かに震えていた。
シュヴァイツァーは一瞬、彼の顔に浮かぶ表情の変化に気づいた。目の奥に宿る強い決意、そしてそれを隠すようにして無理に作り笑いを浮かべようとする姿勢。それが、何かを頼むための前置きに過ぎないことを、シュヴァイツァーは感じ取った。
老兵士は、シュヴァイツァーが返事をする前に、ゆっくりと帽子を直し、再び沈黙の中で言葉を探しているようだった。
補足すると平均寿命が50歳くらいの世界線です。
老頭兵士は造語です。