慈悲とは
リリアは馬車の荷台を指差しながら、低く、冷たく言い放った。
「これは慈悲だ、シュヴァイツァー。この中には、この修道院にいる負傷兵全員を永遠に眠らせるのに十分な量がある。そして……敵本体を渡河させないように湖の氷を破壊するための爆薬もな。」
彼女の声には一切の感情がなかった。ただ事実を淡々と述べるだけの響きが、冬の冷気のようにシュヴァイツァーの心に刺さる。
「この爆薬は、軍事魔導用規格の特注品だ。魔力のない我々でもこれ一つで、この湖の氷を粉々にできる。」
リリアの言葉に、シュヴァイツァーは目を見張った。木箱の中に収められたその荷物が、ただの爆薬ではないことは一目でわかった。
彼女の冷静な声が、雪の降る静寂の中で妙に響いていた。
シュヴァイツァーは言葉を失った。目の前の荷物が何を意味するのか、彼女の説明がなくても理解できた。だが、その事実を前にしてもなお、彼の頭は現実を拒むように鈍く動いていた。
「なにが慈悲だ……」
胸の奥から沸き上がる怒りを抑えきれず、彼は低く呟いた。
「助ける手間を省いただけじゃねえか。」
その言葉は自分に向けたものか、リリアに向けたものか、それすら曖昧だった。彼はただ、目の前の光景に打ちのめされていた。
使えない上層部だとは思っていた。だが、まさかここまで腐り切っているとは――。
シュヴァイツァーはタバコを持つ手を強く握りしめた。白い煙が夜空に溶けていく中で、彼はリリアの横顔を見つめた。その表情は冷たい静寂そのもので、彼女がどんな思いでこれを「慈悲」と呼んだのかを、彼には理解できなかった。
「……ではなんで、あんたは自分の荷物にあれほどの医薬品を持ってきたんだ?」
シュヴァイツァーは自分でも気づかぬうちに口を開いていた。その声には、怒りと困惑が混じり合っていた。
リリアは一瞬だけ彼の方を振り返ったが、何も言わず再び馬車の中に視線を戻した。
「慈悲をかけて殺すといいながら、生かすための薬をわざわざ持ってきたのはどういうことだ?」
シュヴァイツァーの頭の中は混乱していた。彼女の行動と言葉は矛盾だらけだ。死を「慈悲」と呼びながらも、負傷兵を治療するための医薬品を持参している。その意図が、彼にはどうしても理解できなかった。
「生かすための準備をしておいて、殺す準備もする。そんなもの、矛盾してるだろうが!」
彼の声が低く響いた。寒さの中でその声はどこか虚しく消えていく。
リリアは答えない。馬車の扉を閉じると、冷たい手袋を外しながら静かに言った。
「……矛盾しているのはわかっている。」
その言葉には、どこか遠い響きがあった。彼女の目は湖の凍った表面を見つめているが、その先には何も映っていないように見えた。
「シュヴァイツァー。貴様らが助かる方法が一つある。」
リリアの声は冷たく、静かだった。それがかえって不気味な響きを帯び、凍てついた空気の中で重く沈む。
シュヴァイツァーは眉をひそめた。彼女の言葉の裏にあるものを読み取ろうとするが、その表情は氷のように硬く、何も伺えない。
「無論、これは軍本部が承認したものではない。それでも……作戦を聞きたいか?」
リリアはそう問いかけると、じっと彼を見つめた。その目は湖面の氷よりも冷たく、深い闇を宿しているようだった。
シュヴァイツァーは答えず、ただ彼女の視線を受け止めた。喉の奥に言葉が詰まる感覚がした。
◇◆◇◆
「聞け。老頭兵ども」
リリアは兵士たちを前に立ち、冷えた空気を切るような鋭い視線を送った。彼女の声は、湖面に響くように静かだが力強かった。
「まず言っておく。この作戦は軍本部の計画ではない。彼らが出した指令は、ここにいる傷病兵に自死用の薬を配布し、その後、氷を爆破して敵の進行を止めるというものだった。それだけだ。だがわそれでは誰も救えない。これでは……お前らの名誉は回復しない」
彼女の言葉に兵士たちは息を呑む。冷徹な命令の裏にある非人道的な現実が突きつけられた。リリアは一拍置いて続けた。
「私は、それでは終われないと思った。ここにいる誰もが命を懸けて戦ってきた。生き延びる可能性がある者を見捨てることはできない。だから……この計画を立てた」
彼女は指で地図を指し示す。そこには湖の全貌と修道院の位置が描かれている。
「自力で立てない傷病兵約をボートに乗せ、氷の上を渡って渡河させる。そして自力で歩ける者と医官・医療兵を同じく移動させる。その間、私と志願兵が敵の足止めを行う。時間が来れば、湖の氷を爆破して敵の進行を阻む。それがこの作戦だ」
リリアは一度兵士たちを見回し、息を整えた。その瞳には確固たる決意が宿っている。
「だが、この作戦に参加するかどうかは、強制しない。ここから先は志願制だ。名乗りを上げた者は、命を懸ける覚悟を持て。退く者を責めはしない。だが……ここで立ち上がる者は、誇りを持って戦ってほしい」
彼女の声が静かに消え、場を包む沈黙が重くのしかかった。兵士たちは顔を見合わせながら、次第にその言葉の重みを噛みしめていく。
「私は、この作戦に命を懸ける。それが私に課された使命だと信じている。共に戦う者がいるなら、私と共に来て欲しい」
リリアの言葉が静かに消え、場を包む沈黙が重くのしかかった。兵士たちは顔を見合わせ、互いの表情をうかがっている。やがて、一人の男が他の兵士に押し出されるような形で前に出た。
それは、長くこの部隊に身を置く古参兵のトーマスだった。彼は帽子を脱ぐとリリアを真っ直ぐに見つめ、深々と頭を下げる。
「……リリア様。もとよりここにいる兵士はみな辺境伯様の元に志願して来ております。辺境伯様が神明の元に旅立たれた日からとうに我々は覚悟を決めております。ご命令をください。ここにいる誰もが、この地で命を賭けるつもりです」
彼の声は低く、しかし揺るぎない決意が込められていた。その言葉に、兵士たちの間に静かな波紋が広がる。数人が小さく頷き、やがて他の者たちも次々と前に進み出る。
リリアはトーマスを見つめたまま、静かに口を開いた。
「……そうか。ならば、誇りを持って戦え」
その短い言葉に応えるように、兵士たちは力強く頷いた。リリアは小さく息を吐き、再び冷たい表情を取り戻す。
「準備を始めろ。時間は限られている」
彼女の声が響くと同時に、兵士たちは一斉に動き出した。その空気には、戦いへの緊張と覚悟がしっかりと刻み込まれていた。