雪の日の追憶
湖の水面は完全に凍りついていた。
冬の冷気が水面を鋭く閉ざし、鏡のような氷の層が広がっている。降り積もった雪がその表面を薄く覆い、ところどころに黒く透ける部分が見える。氷の下に閉じ込められた水は動きを失い、静寂がその場を支配していた。
時折、氷のひび割れる音が遠くから響いてくる。鋭く、けれどどこか鈍いその音は、夜の闇を切り裂くようでいて、またすぐに雪の音にかき消される。
湖岸に近づくと、凍った氷の上に小枝や枯葉が散らばっているのが見える。まるで時間が止まったかのようなその光景に、リリアは立ち止まった。
冷たい風が吹き抜けるたび、雪が湖面をさらって舞い上がる。白い粒子が空中を踊り、凍りついた湖の上に一瞬だけ生命を与えるかのようにきらめいた。
修道院の裏手に広がる湖は、雪に覆われた静寂の中で息を潜めていた。降り始めた雪は、夜の闇に溶け込むように舞い、湖面を白く薄化粧させている。
リリアはその光景をじっと見つめていた。冷たい風がわずかに露出した頬を刺すように吹きつけるが、それに身を縮める様子もなく、ただじっと立ち尽くしている。
遠くからかすかな足音が聞こえた。修道院の中から出てきたシュヴァイツァーは医療用のエプロンを外し、雑な防寒着を着ながら疲れた様子で煙草を取り出している。
「こんな寒い場所でじっとしていると凍えるぞ」
声がかかると同時に、火を点けた煙草の先がぼんやりと赤く光った。リリアは振り返らず、湖の向こうを見据えたまま静かに答えた。
「凍えるのは嫌いじゃない。心が静かになる」
シュヴァイツァーは一瞬黙り、煙草の煙を吐き出しながらリリアの隣に立った。彼の顔には疲労の色が濃く浮かんでいる。診療の合間を縫って吸う一服は、彼にとって唯一の休息だった。たとえすぐそばに敵兵士の呼吸が聞こえようとも、やめることが出来なかった。
シュヴァイツァーは一瞬黙り、煙草の煙を吐き出しながらリリアの隣に立った。彼の顔には疲労の色が濃く浮かんでいる。診療の合間を縫って吸う一服は、彼にとって唯一の休息だった。
「寒いのは、好きだ。」
突然、リリアが口を開いた。湖を見つめたまま、感情のこもらない声でそう言った。
「……なんだって?」
シュヴァイツァーは眉をひそめる。
「小さい頃、雪が降る領地でよく遊んだ。手がかじかむまで雪玉を作って、それを兄に投げつけたりした。」
リリアの声には抑揚がなく、その語り口はどこか現実感を欠いていた。シュヴァイツァーは彼女の横顔を見つめながら、胸の奥にかすかな違和感を覚える。
その違和感は、瀕死の怪我を負った兵士がせん妄状態に陥り、現在と過去の境目が曖昧になったときに発する唐突な言葉に似ていた。戦場で何度も耳にした、現実を拒絶し、心が記憶の中へ逃げ込んだ者の話し方――それと同じものを、彼はリリアの声に感じ取った。
「……それで?」
シュヴァイツァーは問いかけるが、リリアは答えない。ただ凍りついた湖面をじっと見つめていた。彼女の視線の先には、何もない。ただ白い闇が広がるだけだった。
違和感を振り払うように、シュヴァイツァーは静かに口を開いた。
「さっきはその、感情的になって悪かったな。」
背後からの声に、リリアは振り返らずに答える。
「慣れている。」
その声には冷徹さと無感情が入り混じっていた。感情の起伏を幾度も経験し、それを乗り越えてきた者だけが持つ響きだった。
シュヴァイツァーは彼女の横に立ち、タバコに火をつける。薄い煙が夜空に溶け、湖面の凍りついた静けさと交わるように漂う。
「私のような貴族上がりの小娘が戦場にいるのが気に入らないのは、よく理解できる。」
リリアの声は低く、感情を抑えたものであった。その言葉に、シュヴァイツァーは眉をひそめる。
「文句も言われるし、それも仕事のうち、さ。」
タバコの煙を吐き出しながら、彼は軽く肩をすくめる。だが、その軽い仕草とは裏腹に、彼の目は真剣だった。
リリアは視線を湖に戻し、凍りついた水面をじっと見つめる。その先に何があるのか、自分でもわからない。ただ、そこに映るのは自分自身の影のようなものだった。
「敵が山脈を越えてくることはわかっていた。だが、誰も耳を貸さなかった。これがその結果だ。」
彼女の言葉は静かで、それゆえに重かった。
「……で、君はどうするつもりなんだ?こんなところに来たって死ぬだけだぞ」
シュヴァイツァーが問いかける。
リリアは答えない。
ただ、凍りついた湖の向こうを見据えるようにして立っていた。その姿は、戦場で命を懸ける覚悟を決めた者の背中そのものだった。
「来い。」
リリアが短く命じるように言うと、シュヴァイツァーはタバコを指で揉み消し、彼女の後を追った。凍りついた湖を背に、二人は修道院の裏手に停められた補給馬車の前に立つ。雪に覆われた車輪は動かず、馬車全体が静寂の中に沈んでいる。
リリアは無言で馬車の扉に手をかけた。重い音を立てて扉が開くと、中にはいくつかの木箱と布で包まれた荷物がぎっしりと詰め込まれていた。
最初に目に飛び込んできたのは、精巧に作られた木箱。箱の側面には異国の文字が焼き印のように刻まれている。蓋がわずかにずれ、その隙間からは乾燥した植物のようなものが覗いていた。甘ったるい香りが、冷たい夜の空気に混じって漂う。
その隣には、布に包まれた筒状の荷物が並んでいた。布越しに触れたら爆ぜそうなほど緊張感を帯びたそれらは、軍用の魔鉱石式爆薬であることを隠そうともしていなかった。
「これは……」
シュヴァイツァーが思わず口を開きかけた瞬間、リリアが冷たい声で制した。
「黙れ。」
彼女の視線はシュヴァイツァーではなく、積荷に向けられていた。その瞳には、一切の揺らぎがなかった。
「これが我々の現実だ。」
短い言葉に、彼女の覚悟と諦念が込められていた。
シュヴァイツァーは口を閉じ、再び木箱に視線を落とした。その中身を知る必要はなかった。ただ、その香りと異国の文字、そしてリリアの態度だけで、箱が何を意味するのかを察していた。
爆薬の存在と、隣り合わせに積まれたそれ――その組み合わせが、この戦争の行く末を象徴しているように思えた。